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* 天保15年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]](同[[1845年]][[1月9日]])、 [[弘化]]に改元
勘者として式部大輔の桑原為
頭
顕
・同権大輔の高辻以長・文章博士の唐橋在久の3名が知られ、桑原の勘進した案の中に「天保」があったことが知られている。後述のような曰くのある元号であったが、朝議でもその後の幕府への内慮でも特段の異論が出ずに改元が実施されている<ref>久保貴子「改元にみる朝幕関係」『近世の朝廷運営-朝幕関係の展開-』(岩田書院、1998年) ISBN 4-87294-115-2 P274-276</ref>。
== 出典 ==