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=== 昭和時代 ===
* [[1927年]](昭和2年)の東西合併から[[春秋園事件]]が起こった1932年までの間、番付編成の基準はめまぐるしく変化し(東京開催と関西開催を交互に行う年4場所制だったが、東京場所の番付は東京場所の成績を基準に作成され、関西場所も同様に作成された、など。)、力士の地位・出世にも影響を及ぼした。[[能代潟錦作]]の項を参照
* 東西相撲合併後の1927年1月場所、年寄定員88名に大阪方17名を加え105名に増員(うち2名は一代年寄)。この場所の番付の「年寄」の欄には現在の番付と違い、「年寄」と書かれた下部に小さく「[[いろは順|イロハ順]]」と書かれており、いろはの順番に年寄名が記載されていた。<!--この番付で大坂相撲の[[錦城山勇吉|錦城山]]、[[荒熊谷五郎|荒熊]]の両大関は平幕に編入された。-->
* [[1928年]](昭和3年)10月、広島に於いて晴天11日間興行されたが、今後関西本場所は番付を発表せず、直前の東京場所番付をもってすることとなった(1932年10月、関西本場所廃止まで)。
* [[1931年]](昭和6年)1月場所千秋楽、横綱宮城山が引退を表明し、次に編成された5月場所の番付は、1890年5月場所に『横綱』の地位記載を始めて以来初めて横綱不在の番付(翌1932年10月場所まで)となった。