「坂田三吉」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
「𠮷」を画像ではなく、文字データで表記
Kokada jnet (会話 | 投稿記録)
68行目:
家が貧しく、幼い頃から[[丁稚]]奉公をしていたため文字を知らなかった。将棋を親しく教わった[[升田幸三]]は、生涯覚えた漢字は「三」「吉」「馬」の三字だったと証言している。阪田の代筆をしていた書道家の北野千里は、この他に「坂」の字も書けたと証言している。現在、日本将棋連盟から販売されている扇子にはこの「馬」の字が使用されており、他の棋士の扇子よりも値段が高く、今なお将棋ファンに根強い人気がある。
{{wikiquote}}
[[北条秀司]]原作による『王将』というタイトルの戯曲(三部構成)や映画、さらに歌のモデルになった。阪田は生前「わしが死んだらきっと芝居や活動写真にしよりまっせ」と言っていた。しかし、映画などでの阪田像は多分に誇張されたものであり、真実の阪田とはへだたりがあるという、阪田と実際に会った棋士たちの複数の証言がある。

阪田は映画では無法者であるかのように描かれているが、実際には極めて礼儀正しい人物であり(ただし、実際に会った棋士たちも阪田の晩年に近いときに会った話であり、若いころから礼儀正しかったかどうかはわからない)、文字は知らなかったが江戸時代の古い将棋を相当よく知っており、将棋も独学ではなく阪田以前に大阪名人といわれた[[小林東伯斎]]に入門していた。

有名な[[阪田流向かい飛車]]も江戸時代の定跡を元にしたものである。僧侶などの知識人の話を聞くなどの耳学問で一般常識などは身に付いていた。ただ、文字を知らないための奇行があったことは、実際に親しく将棋を教えられた[[升田幸三]]も認めており、食堂のメニューが読めなかったり、阪田の記録係だった[[大山康晴]]が、算用数字で考慮時間を記録していたのを見た阪田は「英語で記録しているのか」と聞いたりしたという。また阪田自身は字が書けないことを気にしておらず、頭を指さして「ここに将棋が一杯入ってまんねん。」とおどけた。
 
{{quotation|「ほんまの先生は真率という言葉がありますやろ。あの通りですわ。ちょっと変わったとこはあったけど、素直で生地のまま、それはもう何のまじり気もない、あんな人がよう将棋させるなと思うような、純粋でええ人でした。」|知人の書道家北野千里の証言}}
 
なお、戯曲作者の[[北条秀司]]は、戯曲『王将』第一作の執筆前に、阪田の遺族(次女夫婦)に取材を申し込んだが、拒否されたとしている<REF>『演劇雑記帳』(読売新聞社)P.95</REF>。また、戯曲を盛り上げるために、意識的にフィクションを盛り込んだことを自認している<REF>『演劇雑記帳』(読売新聞社)P.95</REF>。阪田の家族の反応としては、戯曲第一作の上演の際、阪田の長男や次女は、好意的な反応をしたという記録がある<REF>『演劇雑記帳』(読売新聞社)P.95</REF>。一方、戯曲(および映画)の大ヒットをうけ、阪田の晩年を描く『王将』続編の執筆のため、北條が取材しようとした際には、「父をこれ以上、阿呆よばわりされたくない」という阪田次女の意向により、北條は関係者への取材もできなかったという<REF>『演劇雑記帳』(読売新聞社)P.92</REF>。
 
人気少女漫画『[[ガラスの仮面]]』の主人公・[[北島マヤ]]のモデルは『王将』の坂田である<ref>NHK BS2 2005年1月24日放映「THE・少女マンガ! 作者が語る名作の秘密 第一夜『ガラスの仮面』」で作者の[[美内すずえ]]は子供の頃に観た[[三國連太郎]]主演の『王将』(監督:[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]] 1962年 東映)の登場人物である「坂田三吉」に刺激を受け、一芸に秀でているが他のことは何も出来ない主人公を描こうと思ったと語っている。</ref>。