「ニキ・ラウダ」の版間の差分

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*1977年、エンツォと口論の末フェラーリから離脱した後、自家用飛行機で帰ろうとするが、航空管制塔から離陸許可が出なかった。実は既にラウダがフェラーリを辞める話はイタリア人の耳に入っていたため、フェラーリを辞めて行くドライバーに対する管制官からの嫌がらせだった。それに対してラウダは「私は来年、イタリアのアルファロメオエンジンを積むブラバムに行くんだ、イタリアとは縁が残ってるよ」と答えたところ、管制官は離陸を許可した。
*1度目の引退から2年経った1982年に[[フォーミュラ1|F1]]に復帰する際、マクラーレンのメインスポンサーである[[マールボロ (たばこ)|マールボロ]]の重役から「契約金はいくら欲しいんだ」と聞かれ、どのドライバーよりも遙かに高額の契約金を口にした。それに対して重役は「まだ誰よりも速く走る自信があるのか?」と質問するとラウダは「この金額は、ニキ・ラウダというブランドに対して支払われる対価だと考えて欲しい。だからあなた方は私のドライバーとしての能力には1ドルだけ支払ったと考えてもらいたい。残りは私という個人への投資です。私が広告塔になるPR効果は私が提示した金額よりはるかに高いと思いますよ」と答え、これをマールボロ側も了承した。そしてラウダは1984年に3度目となるワールドチャンピオンを獲得しマールボロの担当者に「価値」を証明した<ref><最速王伝説>ニキ・ラウダ、不屈の闘志 - [[Sports Graphic Number]] PLUS 20世紀スポーツ最強伝説⑥ March 2000「F1 未知への疾走」p78 [[文芸春秋]] </ref>。
*レーサーとしての現役を引退した後、ラウダは[[ラウダ航空|航空会社]]を起業したが、[[1991年]]に[[ラウダ航空004便墜落事故]]が発生。経営者の立場だったラウダは事故を聞きつけると現場に駆けつけ、惨状を目の当たりにした。彼は事故調査委員会のメンバーではなかったが、自ら進んで事故原因の徹底究明に尽力した。その行動には、前述した1976年ドイツグランプリ決勝での大事故の経験が根幹にあったと言える。結局は76年の事故原因がわからず仕舞いだったため、ラウダ航空004便の事故原因は何としても解明しなければならないと彼を決意させた。ラウダ自身が曖昧さを嫌うことを示したエピソードと言える。
*[[1992年]]からフェラーリのアドバイザーとしてグランプリ開催中のピットに姿を見せるようになったが、当初は自らの役割について「自分が見て思ったことを情報としてフェラーリに提供するだけだよ。助力はできるけど共闘はしないという立場だと思う。私には飛行機のビジネスがあるしね」と話し、「フェラーリから報酬は1ドルももらっていないし、単にアドバイザーだよ。」とチームと一定の距離を保つ発言をし、グランプリ開催地に来も金曜日の予選を見だけで帰り、決勝には姿無い<ref>F1グランプリ特集 1993年7月号 53頁 ソニーマガジンズ</ref>など存在感は大きくなかった。しかし1年後の1993年スペインGP開催期間に[[赤井邦彦]]がわれたインタビューでは「フェラーリは真のカリスマ性を持っている。F1に正しい方向性を与えるのはフェラーリ外にはありえない。だから平日でも[[マラネッロ]]に行ったり、一生懸命やってるよ」「現役時代よりも今が一番フェラーリに深く関わっている。私は何か頼まれたら全力でそれを行う人間なんだよ」<ref name="f1gpsp_lauda"></ref>と話しており、徐々に熱意の入った活動となっていたことが伺える。
 
=== 人間関係 ===