「西突厥」の版間の差分

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射匱可汗が死去すると、弟の統葉護(トン・ヤブグ)が立って大可汗(在位:[[619年]]頃 - [[628年]])となる。[[統葉護可汗]]は智謀があり、武勇に優れ、遂に北の[[鉄勒]]を併合し、西の波斯([[サーサーン朝]])を拒み、南の[[罽賓]](けいひん)と境を接するまでになり、西域に覇を唱えた。西域の諸国王は頡利発(イルテベル:官名)の官位を授かり、統葉護可汗は吐屯(トゥドゥン:官名)1人を派遣して統括させ、その征賦を監督した。旧[[烏孫]]の地に拠り、可汗庭(首都)を[[石国]](チャーシュ:現[[タシュケント]])の北の千泉(ビルキー birkī:現Merke)に移した。
 
時に中国では隋が滅んで[[唐]]が成立しており、統葉護可汗はたびたび遣使を送って朝貢した。また、隣国の東突厥とも和睦し、一時[[中央ユーラシア]]に平和が訪れた。しかし、統葉護可汗は次第に自国が強盛であるのを自負し、支配下の国に恩がなく、部衆は怨みを抱き始め、遂に邏禄([[カルルク]])種の多くがこれに離反した。そうした中、[[貞観 (唐)|貞観]]2年([[628年]])、統葉護可汗は伯父(諸父)の莫賀咄(バガテュル)に殺され、可汗位を簒奪されてしまう。
 
===2可汗並立===