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差分

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君主は大可汗を頂点に、二人の小可汗を東西に置き、東部は[[亀茲]]国(現在の[[クチャ県]])の北に本拠を置き、西部は[[石国]](現在の[[タシュケント]])の北に本拠を置いた。政治体制は突厥や東突厥と同じで、葉護(ヤブグ:Yabghu),特勤(テギン:Tägin),俟発,乙斤屈利啜,閻洪達,頡利発(イルテベル:Iltäbär),吐屯(トゥドゥン:Tudun),俟斤(イルキン:Irkin),達干(タルカン:Tarqan)などの官職があり、評議して国事をなした。首都である可汗庭は北と南にそれぞれ北庭と南庭を置いた。[[統葉護可汗]](在位:[[619年]]頃 - [[628年]])の時に可汗庭を石国の北の千泉(ビルキー birkī:現Merke)に移した。
 
構成民部族は多種で、咄陸(都陸、テュルク:Türk),弩失畢,邏禄(カルルク:Qarluq),処月,処密,姑蘇などの諸種が雑居し、[[鉄勒]](オグズ:Oγuz),亀茲,[[焉耆]]([[カラシャール]]),[[伊吾]]([[クムル市|ハミ]])などの[[西域]]諸国を属国とした。
 
[[沙鉢羅咥利失可汗]](在位:[[634年]] - [[639年]])の頃に西突厥は十部に分かれ、部ごとに設(シャド:šad)が置かれ、設にはそれぞれ箭(せん)が授けられ、これを十設、または十箭と呼んだ。さらに十設を左右廂に分けて、碎葉(スーヤーブ)以東の五咄陸部を五大啜(チュル)、碎葉以西の五弩失畢部を五大俟斤(イルキン)とした。
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