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当時の東晋は中興が始まったばかりであったため、史官が設置されていなかった。中書監[[王導]]は[[元帝 (東晋)|元帝]]に対して史官の設置を提言し、その人材として干宝を推薦した。干宝は元帝から認められて国史編纂の任務を兼任するようになった。そして[[司馬懿|宣帝]]から[[愍帝 (西晋)|愍帝]]までの53年の事績を20巻にまとめて著し、『晋紀』と題して上奏した。内容が簡明で正すべきところは正し、婉曲にすべきところは婉曲であったため、干宝は良吏と評価されたという。
 
家が貧しかったため、自らすすんで山陰県令となり、さらに始安太守を務めた。王導の招きを受けて[[司徒]]右長史となり、散騎常侍に至った。
 
[[咸康]]二年([[336年]])に亡くなったという<ref>[[許嵩(唐)|許嵩]]『[[建康実録]]』巻七</ref>。