「アロー戦争」の版間の差分
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|commander2 = {{Flagicon|GBR}} [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]<br />{{Flagicon|GBR}} [[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]<br />{{Flagicon|GBR}} [[エルギン伯爵]][[ジェイムズ・ブルース (第8代エルギン伯爵)|ジェイムズ・ブルース]]<br />{{Flagicon|FRA}} [[ナポレオン3世]]<br />{{Flagicon|FRA}} [[ジャン・バティスト・ルイ・グロ]]
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'''アロー戦争'''(アローせんそう、{{lang-en|Arrow War}})は、[[1856年]]から[[1860年]]にかけて、[[清]]と[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]・[[フランス第二帝政|フランス]]連合軍との間で起こった[[戦争]]である。最終的に[[北京条約]]で終結した。戦争の理由の一つであった、[[中国人]]による多くの[[人種差別|外国人排斥]]事件の
== アロー号拿捕事件 ==
[[1839年]]9月に武力行使が始まったアヘン戦争の[[講和条約]]として、1842年に締結された[[南京条約]]の規定により、英国は
また、南京条約締結後約一年の間に結ばれた諸協定により、公正公平な[[関税]]率の設定、[[領事裁判権]]、[[最恵国]]条項、開港五港にそれぞれ[[軍艦]]一隻を停泊できる権利などが取り決められた。また清国中央政府は公式には認めていないが、当時の[[欽差大臣]][[耆英]]が長江河口以南の[[アヘン]]貿易を非公式に黙認した。 南京条約及びその後結ばれた諸協定により、香港に駐在する英国公使兼香港総督に対する中国側の外交の窓口は、広東(広州)にほぼ常駐することとなる広東[[欽差大臣]]が担うこととなった。これによって、英国側の清国官吏との接触方法が、アヘン戦争前の公行商人を介在させた間接的な仕組みから大きく改善し、直接接触が可能となった。また開港五港の各英国領事は道([[省]]の下に置かれた行政区分)に置かれた道台(道の長官)と接触することが可能となった。しかし[[北京市|北京]]に外交使節が常駐することは認められなかった。
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