「チャンデーラ朝」の版間の差分

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{{基礎情報 過去の国
|略名 =
|日本語国名 = チャンデーラ朝
|公式国名 =
|建国時期 = [[9世紀]]初頭
|亡国時期 = [[14世紀]]初頭
|先代1 = プラティーハーラ朝
|先旗1 =
|次代1 = デリー・スルターン朝
|次旗1 = Delhi Sultanate Flag (catalan atlas).png
|国旗画像 =
|国旗リンク = <!--「"略名"の国旗」以外を指定-->
|国旗説明 =
|国旗幅 = <!--初期値125px-->
|国旗縁 =
|国章画像 = <!--画像ファイル名を入力-->
|国章リンク =
|国章説明 =
|国章幅 = <!--初期値85px-->
|標語 =
|国歌名 =
|国歌追記 =
|位置画像 = Asia 1200ad.jpg
|位置画像説明 = 1200年頃のインド
|公用語 = [[サンスクリット語]]
|首都 = [[カーリンジャル]]<br>[[カジュラーホー]]<br>[[マホーバー]]
|元首等肩書 =
|元首等年代始1 = 900年
|元首等年代終1 = 925年
|元首等氏名1 = [[ハルシャ]]
|元首等年代始2 = 925年
|元首等年代終2 = 950年
|元首等氏名2 = [[ヤショーヴァルマン]]
|元首等年代始3 = 950頃
|元首等年代終3 = 1008頃
|元首等氏名3 = [[ダンガ]]
|元首等年代始4 = 1004年
|元首等年代終4 = 1029年
|元首等氏名4 = [[ヴィディヤーダラ]]
|元首等年代始5 = 1165年
|元首等年代終5 = 1203年
|元首等氏名5 = [[パラマルディン]]
|面積測定時期1 =
|面積値1 =
|人口測定時期1 =
|人口値1 =
|変遷1 = [[プラティーハーラ朝]]より独立
|変遷年月日1 = [[10世紀]]後半
|変遷2 =
|変遷年月日2 =
|変遷3 =
|変遷年月日3 =
|変遷4 =
|変遷年月日4 =
|変遷5 = 滅亡
|変遷年月日5 = [[1309年]]頃
|通貨 =
|現在 =
|注記 =
}}
'''チャンデーラ朝'''(チャンデーラちょう、[[英語]]:Chandela dynasty)は、[[9世紀]]初頭から[[14世紀]]初頭にかけて、[[インド]]中部の[[ブンデールカンド地方]] (現[[マディヤ・プラデーシュ州]])に存在した[[ヒンドゥー]][[王朝]]。[[ラージプート]]の王朝でもある。'''チャンデッラ朝'''とも呼ばれる。首都は[[カーリンジャル]]、[[カジュラーホー]]、[[マホーバー]]。
 
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この「北伐」によって、プラティーハーラ朝の首都[[カナウジ]]は陥落し、プラティーハーラ王[[マヒーパーラ1世]]はナンヌカの[[玄孫]]にあたる[[ハルシャ]](在位:900年 - 925年)の助けを得て、ようやく王位を回復するといった状態であった<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.33</ref>。
 
[[940年]]頃、[[ヤショーヴァルマン]] (在位:925年 - 950年)の治世、ラーシュトラクータ朝の[[クリシュナ3世]]が[[カラチュリ朝]]と同盟して侵攻し、プラティーハーラ朝はこのとき[[カーリンジャル]]を失った。だが、ヤショーヴァルマンがラーシュトラクータ朝とカラチュリ朝を破り、カーリンジャルを奪還したことによってこの地を獲得し、自立する契機となった<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.33</ref>。
 
また、ヤショーヴァルマンのときに首都[[カジュラーホー]]に[[ヴィシュヌ]]神にささげる宮殿として、[[ラクシュマナ寺院]]を建設したことが知られている<ref>この寺院の建設年代は、[[945年]]頃と考えられている。</ref>。
 
一方、主家であるプラティーハーラ朝が衰退すると、ブンデールカンドでの独立性を確保し、[[10世紀]]後半の[[ダンガ]] (在位:950頃~1008 - 1008頃)の治世には事実上独立し、周辺諸国と争いつつ領土の拡張を押し進めた<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.33</ref>。10世紀後半のダンガ碑文にプラティーハーラ家を宗主とする記述を刻まなくなり、事実上独立することとなった。
 
[[1002年]]にダンガ王は[[ヴィシュワナータ寺院]]を建設し、後に[[パールシュワナータ寺院]]を建設している。また、カジュラーホーの西グループに[[チトラグプタ寺院]]と[[デーヴィー・ジャガダンバー寺院]]が建設された。
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[[Image:Khajuraho5.jpg|thumb|200px|right|パールシュワナータ寺院]]
[[Image:Vishvanatha Temple, Khajuraho (side).jpg|thumb|200px|right|ヴィシュヴァナータ寺院]]
[[11世紀]]初頭の[[ヴィディヤーダラ]](在位1004―1029):1004年 - 1029年)の治世、マールワーのパラマーラ朝の勢力も撃退し、カラチュリ朝の勢力も破るなど、ヴィディヤーダラの治世は最盛期だった。先代に続きこの王も建築事業を行い、[[11世紀]]初めにカジュラーホーの西に建設された[[カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院]]は、 [[シヴァ神]]の住みかとされる[[カイラス山]]を模したものと推定されている。
 
また、[[アフガニスタン]]の[[イスラーム王朝]]である[[ガズナ朝]]が北インドに侵入し、[[1018年]]に[[プラティーハーラ朝]]の首都[[カナウジ]]が落とされた。その際、封臣のカッチャパガータ家のアルジュナに命じて、カナウジを逃げたその君主[[ラージヤパーラ]]を殺害している<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.33</ref>。この理由については、ラージヤパーラがむざむざと首都を明け渡したためとされており、[[イスラーム教徒]]の歴史家[[イブン・アシール]]の著した『完史』に記述されている<ref>(山崎、小西編2007,p.210)。</ref>。