「真田信之」の版間の差分

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戦後、昌幸の旧領に加え3万石を加増されて9万5,000石(沼田3万石を含む)となり[[上田藩]]主となったが、[[上田城]]は破却を命じられた(上田城の再建修築は、後に上田藩主として入った[[仙石氏]]が行う)。引き続き沼田城を本拠とした。信幸は昌幸らの助命を嘆願し、西軍に付いた父との決別を表すために、名を信幸から'''信之'''に改めている(なお、慶長13年([[1608年]])から17年([[1612年]])までは再び「信幸」と文書に署名していることを踏まえて、平山優は単純に家康を憚って父の名に由来する「幸」を捨てたとは言えないとしている{{Sfn|平山優|2016|p=296-297}})。義父・本多忠勝の働きかけもあり、昌幸らは助命され[[紀伊国]][[九度山町|九度山]]へ流罪となる。その後、父が亡くなった折に父の葬儀を執り行えるよう幕府に許可を願い出たが、許されなかった。
 
信之が上田領を継いだ頃、第二次上田合戦や相次いだ浅間山の噴火で領内は荒廃しており、その後も浅間山の噴火や気候不順など天災が相次いだが、信之は城下町の整備や堰や用水の開削、年貢の減免など様々な政策を行って領内の再建に苦闘する一方、私費で九度山にいる父や弟への援助を続けていた{{Sfn|平山優|2016|p=169-288}}。
 
慶長19年([[1614年]])からの[[大坂の陣]]では病気のために出陣できず、長男の[[真田信吉|信吉]]と次男の[[真田信政|信政]]が代理として出陣した。[[元和 (日本)|元和]]8年([[1622年]])10月、信濃[[松代藩|松代]]に加増移封され{{Sfn|柴辻俊六|1996|p=78}}、13万石(沼田3万石は継承)の所領を得る。
 
== 人物・逸話 ==
* 93歳という長命であった信之だが、30代の頃から病気がちであり、40代以降は「手の痛み」「疲れ」「腫れ物」などで病に臥せっていることが多かった{{Sfn|平山優|2016|p=396}}。元和2年、51歳の時には[[マラリア]]を病み、徳川家康の病気見舞いに行けずに、代わりに長子の信吉を駿河に遣わしている<ref name="health30">[[宮本義己]]『歴史をつくった人びとの健康法』、p.30、中央労働災害防止協会、2002年。</ref>。翌年の5月16日にも江戸への参勤を一日延ばしていることからおり、周期的にマラリアの発作を起こしていたとみられる<ref name="health30" />。76歳の寛永18年2月には腫物に苦しめられている<ref name="health30" />。
* [[前田利益]]とは懇意の仲であり、信長の死も利益から聞かされたという。その時、信幸は大将となって佐久・小県をおさえるため軍勢を率いて進んでいたが、敵か味方かも定かではない真田軍を相手に信長の死を明かした利益の態度に感心し、軍勢を引き上げた<ref>『加沢記』『滝川一益事書』より。</ref>。
* 天正10年([[1582年]])10月、離反した真田氏征伐の為、北条氏は沼田へと軍を向ける。当時17歳の信幸を大将とし真田軍800は手子丸城救援の為に駆けつけるも、時既に遅く城は陥落、城主・[[大戸真楽斎]]とその弟(子とも)・但馬守は自害してしまう。信幸は真田氏家臣の[[唐沢玄蕃]]に命じて北条軍前衛を挑発、誘導し伏兵によりこれらを掃討する。真田軍の巧妙な戦術に対応しきれないまま、北条軍は兵力の消耗を恐れ篭城を選択した。正面に比べ警戒の薄い北の丸に着目した信幸は工作部隊を派遣。北の丸より侵入した工作部隊は「裏切者が出た」と叫びながら放火し、不意を突かれた北条軍は同士討ちを行う程の混乱に陥った。信幸はこの機を逃すことなく50人の決死隊を率い、自らも槍を取って突入する。前備の[[鎌原幸重]]を失うも正面に展開していた兵100名が挟撃し、ついに手子丸城本丸の奪取に成功した。世に平穏が訪れたのち、かつて手子丸城の守将であり、[[徳川将軍家]][[旗奉行]]となっていた富永主膳は自身を打ち負かした信之の采配を絶賛し、昔話として幾度も語ったという。
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