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青森県の[[砂沢遺跡]]から水田遺構が発見されたことにより、弥生時代の前期には稲作は本州全土に伝播したと考えられている<ref>日本のイネの伝播経路 佐藤洋一郎 P760 [https://www.jstage.jst.go.jp/article/jbrewsocjapan1988/87/10/87_10_732/_pdf]</ref><ref>公益社団法人 米穀安定供給確保支援機構 [http://www.komenet.jp/bunkatorekishi01/112.html]</ref> 。古墳時代に入ると、農耕具は石や青銅器から鉄製に切り替わり、稲の生産性を大きく向上させた。土木技術も発達し、[[茨田堤]]などの[[灌漑]]用の[[ため池]]が築造された。
 
[[大和朝廷]]は日本を「[[葦原中国|豊葦原の瑞穂の国]](神意によって稲が豊かに実り、栄える国)」と称し、国家運営の基礎に稲作を置いた。朝廷は水田を[[条里制]]によって区画化し、国民に一定面積の水田を[[口分田]]として割りあて、収穫を納税させる[[班田収授制]]を652年に実施した。 以後、租税を米の現物で納める方法は明治時代の[[地租改正]]にいたるまで日本の租税の基軸となった。[[稲作儀礼]]も朝廷による「[[新嘗祭]]」「[[大嘗祭]]」などが平安時代には整えられ、民間でも[[田楽]]などが行われるようになった。[[大分県]]の[[田染荘]]は平安時代の水田機構を現在も残す集落である。
 
=== 中世の稲作 ===