「陳勝・呉広の乱」の版間の差分
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兵卒たちはこれを聴き、一斉に同意を示した(大沢郷起義)。
この時に民衆の支持を集めるために陳勝は
彼らはまず大沢郷を占領、それから諸県を攻略し、[[淮陽県|陳]]を取るころには兵車600乗・騎兵1000余・兵卒数万の大勢力になっていた。陳を攻めた時、郡守・県令は既に逃亡しており、副官が抗戦したがあっという間に陥落した。陳に入城した陳勝はここを本拠とし、即位して王となり、国号を[[張楚]]と定めた。
== 反乱の拡大と章邯の反撃 ==
「陳勝、蜂起す」。この噂が広まると、それまで秦の圧制に耐えていた各地の人民が郡守や県令を血祭にあげて陳勝に呼応した。勢いづいた陳勝は呉広を仮の王として諸将を統率させ西へ征かせるとともに、[[武臣]]に[[張耳]]・[[陳余]]をつけて[[趙]]の地を略定させ、[[鄧宗]]に[[
陳に[[周章]](周文)という人物がいた。陳勝は、彼が軍事に練達していると聞きつけると、彼に将の印を与え西進させて秦を討たせた。周章は徴兵しながら進軍し、[[函谷関]]に到るころには兵車1000乗、兵卒数十万の大兵団となり、かつて何人も敗れなかった函谷関を抜くが、ここに到って秦の[[章邯]]の軍に敗れた。周章は敗走後も曹陽に拠って秦を防いだが数ヶ月支えたのち陥落し、さらに別の地で秦軍を迎撃するが防ぎきれず、ついに自決する。
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== 呉広・陳勝の死 ==
呉広は[[ケイ陽|滎陽]]を攻めていたが、三川
「呉広は兵の使い方が下手だ。このまま秦軍と衝突して勝てるわけがない。呉広を殺し、指揮権を奪おう。」
田臧らは呉広を殺して指揮権を奪い取り、陳勝に呉広の首を送った。陳勝はやむなく暗殺を正当だと認め、田臧を[[令尹]](宰相)とした。しかし、田臧も章邯の前に敗れ、戦死する。
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しかし、その後も戦乱は終息せず、漢の劉邦と楚の[[項籍|項羽]]の争い、いわゆる[[楚漢戦争]]へと発展していく。
死んだ陳勝は
== 脚注 ==
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