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「魔女狩りとは何だったのか」節を「魔女狩りの理由をめぐる諸説」節に
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1782年にスイスで行われた裁判と処刑が、ヨーロッパにおける最後の魔女裁判であるとされる<ref name="europa1782">{{Cite journal |和書 |author1=[http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/recordID/1941 ロルフ・クルムジーク] |author2=九州ベッカリーア研究会 |year=1989 |title=相対主義刑罰理論の先駆者としてのベッカリーア |url=http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/1941/KJ00000692504-00001.pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170205095858/http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/1941/KJ00000692504-00001.pdf |archivedate=2017-02-05 |format=pdf |journal=法政研究 |publisher=九州大学法政学会 |volume=58 |issue=2 |issn=0387-2882 |doi=10.15017/1941 |page=348 |accessdate=2018-04-26 |quote=ゲルハルト・ダイムリンク編『チェザーレ・ベッカリーア/ヨーロッパにおける近代刑事司法の始祖』(1989年)(一) }}</ref>。
 
=== 魔女狩りとは何だった理由をめぐる諸説 ===
19世紀に入って近代的な以降、歴史学が発展すると、家たちは魔女狩りを歴史中でどのように解すべきかについて多くの説提示された。
 
==== 金銭欲原因説 ====
たとえばドイツの歴史家{{仮リンク|ヴィルヘルム・ゾルダン|de|Wilhelm Gottlieb Soldan}}は19世紀末に、魔女狩りは権力者や教会関係者が金銭目当てで行ったものだということ唱えた。つまり封建制度時代示唆し、それ行われ歴史家もこの見方を信じていた私的徴税の一種を行う時期があっめの詭弁。しかし、全体として魔女狩りが行われというものであるが場合には、被告のほとんどが財産をもたない貧しい人々であったことや、告発者が利益を得る仕組みがなかったことが明らかになっているため、現在で代の歴史家には受け入れられていない{{sfn|ジェフリ・スカール/ジョン・カロウ『魔女狩り』|p=61}}
 
==== 異教説 ====
他にも、19世紀のフランス人[[ジュール・ミシュレ]]やエジプト研究家{{仮リンク|マーガレット・マリー|en|Margaret Murray}}は「魔女とされた人たちは、実はキリスト教の陰で生き残っていた古代宗教を信じていた農民であった」と考えたが、実際には被告のほとんどがキリスト教徒であって、当時の農民の中に異教の信仰があったという証拠は依然として何も得られていない。20世紀に入っても[[ジェラルド・ガードナー]]が「魔女というのはヨーロッパに古代から伝わっていた女神信仰を信じていた男女である」と唱え、今日[[ウイッカ]]と呼ばれている宗教運動の創始者となった。他にもアメリカのフェミニスト研究者{{仮リンク|バーバラ・エーレンライク|en|Barbara Ehrenreich}}とディアドリー・イングリッシュ (Diedore English) は、「魔女とされた人々は女性医療師たちであり、魔女の集会とは、女性医療師たちによる情報交換の場であった」と考え、「魔女狩りとは世俗権力や教会の指導者たる男性たちによる女性医療師への大規模な弾圧であった」という説を唱えた{{sfn|ジェフリ・スカール/ジョン・カロウ『魔女狩り』|pp=63-64}}。しかし、この理論ではなぜ農民自身が魔女狩りを推し進めたのか、魔女狩りの被告となった少なからぬ数の男性たちがいた事実をどう説明するのかなど、理論としての精確さに欠けている。そのため、これらの説は現代の研究者たちには受け入れられていない。
19世紀のフランス人[[ジュール・ミシュレ]]やエジプト研究家{{仮リンク|マーガレット・マリー|en|Margaret Murray}}は「魔女とされた人たちは、実はキリスト教の陰で生き残っていた古代宗教を信じていた農民であった」と主張した。しかし実際には被告のほとんどがキリスト教徒であって、当時の農民の中に異教の信仰があったという証拠はない{{sfn|ジェフリ・スカール/ジョン・カロウ『魔女狩り』|pp=62-63}}。
 
20世紀には[[ジェラルド・ガードナー]]が「魔女というのはヨーロッパに古代から伝わっていた女神信仰を信じていた男女である」と唱え、今日[[ウイッカ]]と呼ばれている宗教運動の創始者となった。
20世紀に唱えられた説では、完全ではないものの複合的に要因の一つと考えうるものがある。たとえば魔女狩りが戦争や天災に対する庶民の怒りの[[スケープゴート]]であったという説。この説は[[ペスト]]や戦争が起こっていた時期と地域が、魔女狩りの活発さと関連していると主張するが、実際には[[三十年戦争]]のピーク時には魔女狩りが沈静化しているなど、それほどはっきりとしたつながりが見られない。次にイギリスの歴史家[[ヒュー・トレヴァ=ローパー]]らが唱えた「魔女狩りはカトリックとプロテスタントの宗派間抗争の道具であった」という説がある。つまりカトリックが優位な地域では、少数のプロテスタント市民に対し、魔女の烙印を押して迫害し、逆にプロテスタント地域ではカトリック市民が魔女とされたということである。しかし、この説も対立する宗派の人間がほとんどいなかった地域(たとえばイングランドのエセックス州、スイスの[[ジュネーヴ]]、イタリアの[[ヴェネツィア]]、スペインとフランスにまたがるバスク地方など)においても激しい魔女狩りが行われ、逆にカトリックとプロテスタントが激しく争った地域(たとえばアイルランドやオランダ)であっても魔女狩りがほとんどなかったところがあることを説明できないなど、確実な説とは言いがたい。
 
==== 女性医療師弾圧説 ====
J・H・エリオット (J. H. Elliott) は魔女狩りが中央集権化した国家や教会の中枢による臣民のコントロール手段であったと考えたが、この理論では権力者が白魔術に対して寛容であったのはなぜか、あるいはなぜ教会や世俗権力が中央集権化した中世盛期に魔女と魔術を放置しており、近世初期になって突如魔女狩りが始まったのかを説明できない、権力者を一概に悪に決め付けているなどの批判がある。魔女狩りという言葉は1970年代アメリカでフェミニストの研究者たちによって、キリスト教誕生以降起こったすべての女性への迫害を指す言葉として用いられるようになり、その犠牲者数は19世紀に女性の権利を訴えていた著述家{{仮リンク|マティルダ・ジョスリン・ゲージ|en|Matilda Joslyn Gage}}が述べた900万人とした。なお、900万人と最初に算定したのは啓蒙時代の学者ゴットフリート・クリスティアン・フォークトであった{{sfn|W. ベーリンガー『魔女と魔女狩り』|pp=226-227}}。魔女狩りは時に「女性へのホロコースト」という言い方をすることもある。しかし、現代の研究者たちは、女性に対する敵視が魔女狩りの原動力の一つであったことは否定しない一方で、たとえば[[アイスランド]]では裁判を受けたものの80%が男性であったように、魔女裁判の被告が必ずしも女性だけでなかったということも明らかにしている。
他にも、19世紀のフランス人[[ジュール・ミシュレ]]やエジプト研究家{{仮リンク|マーガレット・マリー|en|Margaret Murray}}は「魔女とされた人たちは、実はキリスト教の陰で生き残っていた古代宗教を信じていた農民であった」と考えたが、実際には被告のほとんどがキリスト教徒であって、当時の農民の中に異教の信仰があったという証拠は依然として何も得られていない。20世紀に入っても[[ジェラルド・ガードナー]]が「魔女というのはヨーロッパに古代から伝わっていた女神信仰を信じていた男女である」と唱え、今日[[ウイッカ]]と呼ばれている宗教運動の創始者となった。他にもアメリカのフェミニスト研究者{{仮リンク|バーバラ・エーレンライク|en|Barbara Ehrenreich}}とディアドリー・イングリッシュ (Diedore English) は、「魔女とされた人々は女性医療師たちであり、魔女の集会とは、女性医療師たちによる情報交換の場であった」と考え、「魔女狩りとは世俗権力や教会の指導者たる男性たちによる女性医療師への大規模な弾圧であった」という説を唱え主張し{{sfn|ジェフリ・スカール/ジョン・カロウ『魔女狩り』|pp=63-64}}。しかし、この理論ではなぜ農民自身が魔女狩りを推し進めたのか、魔女狩りの被告となった少なからぬ数の男性たちがいた事実をどう説明するのかなど、理論としての精確さに欠けている。そのため、これらの説は現代の研究者たちには受け入れられていない{{sfn|ジェフリ・スカール/ジョン・カロウ『魔女狩り』|pp=63-64}}
 
==== 災禍反応説 ====
{{独自研究範囲|date=2012年5月|確実に言えることをまとめると、当時のヨーロッパを覆った宗教的・社会的大変動が人々を精神的な不安に落としいれ、庶民のパワーと権力者の意向が一致したことで魔女狩りが発生したということである。現代の歴史学ではかつての魔女狩りについてのイメージの多くが否定されているにもかかわらず、多くのメディアなどでは依然として魔女狩りをステレオタイプのまま捉えて「キリスト教会主導で行った大量虐殺」としている。}}
20世紀に、魔女狩りが戦争や天災に対する庶民の怒りの[[スケープゴート]]であり、[[ペスト]]や戦争などの災禍が起こっていた時期と地域が、魔女狩りの活発さと関連していると主張する説があらわれた。しかし実際には[[三十年戦争]]のピーク時には魔女狩りが沈静化しているなど、災禍と魔女狩りにはっきりとしたつながりは見られない{{sfn|ジェフリ・スカール/ジョン・カロウ『魔女狩り』|pp=66-67}}。
一方で、大虐殺であったことは確かであるという意見もある{{誰|date=2012年5月}}。
 
==== 宗派抗争説 ====
20世紀に唱えられた説では、完全ではないものの複合的に要因の一つと考えうるものがある。たとえば魔女狩りが戦争や天災に対する庶民の怒りの[[スケープゴート]]であったという説。この説は[[ペスト]]や戦争が起こっていた時期と地域が、魔女狩りの活発さと関連していると主張するが、実際には[[三十年戦争]]のピーク時には魔女狩りが沈静化しているなど、それほどはっきりとしたつながりが見られない。次にイギリスの歴史家[[ヒュー・トレヴァ=ローパー]]らが唱えたは、「魔女狩りはカトリックとプロテスタントの宗派間抗争の道具であった」という説がある主張したつまりカトリック優位地域では、少数のプロテスタント市民に対し、魔女の烙印を押して迫害し、逆にプロテスタント優位の地域ではカトリック市民が、それぞれ魔女として迫害されたということである。しかし、この説も対立する宗派の人間がほとんどいなかった地域(たとえばイングランドのエセックス州、スイスの[[ジュネーヴ]]、イタリアの[[ヴェネツィア]]、スペインとフランスにまたがるバスク地方などにおいて激しい魔女狩りが行われ、逆にカトリックとプロテスタントが激しく争った地域(たとえばアイルランドやオランダなどあっても魔女狩りがほとんどなかったところがあることを説明できないなど、確実な説とは言いがたい{{sfn|ジェフリ・スカール/ジョン・カロウ『魔女狩り』|pp=69-71}}
 
==== フェミニストの主張 ====
魔女狩りという言葉は1970年代アメリカでフェミニストの研究者たちによって、キリスト教誕生以降起こったすべての女性への迫害を指す言葉として用いられるようになり、その犠牲者数は19世紀に女性の権利を訴えていた著述家{{仮リンク|マティルダ・ジョスリン・ゲージ|en|Matilda Joslyn Gage}}が述べた900万人とした。なお、900万人と最初に算定したのは啓蒙時代の学者ゴットフリート・クリスティアン・フォークトであった{{sfn|W. ベーリンガー『魔女と魔女狩り』|pp=226-227}}。
 
魔女狩りは時に「女性へのホロコースト」という言い方をすることもある。しかし、現代の研究者たちは、女性に対する敵視が魔女狩りの原動力の一つであったことは否定しない一方で、たとえば[[アイスランド]]では裁判を受けたものの80%が男性であったように、魔女裁判の被告が必ずしも女性だけでなかったということも明らかにしている。
 
==== 社会制御手段説 ====
ラーナーとJ・H・エリオット (J. H. Elliott)、ミシャンブレッド は、魔女狩りは権力者が弱者に対する支配を拡大強化のために使ったとする、社会制御手段説を主張した{{sfn|ジェフリ・スカール/ジョン・カロウ『魔女狩り』|pp=79-82}}。この理論は、もっともだと思われる点がある一方で、権力者が白魔術に対して寛容であったのはなぜか、あるいはなぜ教会や世俗権力が中央集権化した中世盛期に魔女と魔術を放置しており、近世初期になって突如魔女狩りが始まったのかを説明できない、権力者を一概に悪に決め付けているなどの批判がある。
 
==== 固く信じられていた魔女の存在 ====
デルカンブル (E.Delcambre)は、[[ロレーヌ]]の魔女裁判における裁判官と被疑者の心理について研究した{{sfn|ジェフリ・スカール/ジョン・カロウ『魔女狩り』|pp=84-87}}。この研究によれば、裁判官は高潔な人々であり、被疑者が心の平安を得ることを真剣に望んでいた。また被疑者たちのなかにも、自らは魔女であり心から自分が有罪だと信じている者もいた。このように魔女の存在が固く信じられていたことは、裁判の進行に重要な役割をはたした。また、ドイツ、イタリア、スペインの魔女裁判でも似たような特徴が示された。
 
近世ヨーロッパの法廷で魔女が有罪とされたのは、立法者や裁判官が魔女の存在を固く信じていたからだとジェフリ・スカールとジョン・カロウは結論づけている{{sfn|ジェフリ・スカール/ジョン・カロウ『魔女狩り』|pp=84-87}}。
 
=== 魔女狩りと近代憲法の原則 ===