「魔女狩り」の版間の差分

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魔女への鉄槌と記事と重複する内容の註釈を除去;900万人についての記述を精確に。
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'''魔女狩り'''(まじょがり、{{lang-fr-short|chasse aux sorcières}}、{{lang-de-short|Hexenverfolgung}}、{{lang-en-short|witch-hunt}})は、[[魔女]]または[[妖術]]<ref group="註">[[社会人類学]]では、[[エドワード・エヴァン・エヴァンズ=プリチャード|エヴァンズ=プリチャード]]による南スーダンの[[アザンデ族]]の研究以降、病などの不幸の原因を説明する概念としての呪術 (magic) を邪術 (sorcery) と妖術 (witchcraft) に区別することが行われている。前者は何らかの物質や道具などを用いて意図的に他者に害を及ぼそうとする技術であり、後者は特定の人に宿る力が非意図的に他者に災いをもたらしてしまうことである。これを行使するとされる者にはそれぞれ邪術師 (sorcerer)、妖術師 (witch) という術語が当てられる。しかし、そのような意味での邪術と妖術の区別は、ヨーロッパの歴史においては明確でなかった。一般に魔女と翻訳される西洋のウイッチは、主にここでいう邪術を使う者を指していたと言ってよい(『宗教学辞典』 東京大学出版会、683頁)。また、文化人類学以外の分野では魔法と魔術などさまざまな訳し方があり、統一的な訳語は定まっていない。そういったことを考慮して、ここでは文化人類学でいう邪術と妖術とを併せて広義の妖術として一括する。</ref>の被疑者に対する[[訴追]]、[[裁判]]、[[刑罰]]、あるいは法的手続を経ない[[私刑]]等の一連の迫害を指す。妖術を使ったと疑われる者を裁いたり制裁を加えることは古代から行われていた。ヨーロッパ中世末の[[15世紀]]には、[[悪魔]]と結託して[[キリスト教]]社会の破壊を企む背教者という新種の「魔女」の概念が生まれるとともに、最初の大規模な'''魔女裁判'''が興った。そして初期近代の16世紀後半から17世紀にかけて魔女熱狂とも大迫害時代とも呼ばれる魔女裁判の最盛期が到来した。現代では、歴史上の魔女狩りの事例の多くは無知による社会不安から発生した[[集団ヒステリー]]現象であったと考えられている。
 
かつて魔女狩りといえば、「[[12世紀]]以降[[キリスト教|キリスト教会]]の主導によって行われ、数百万人が犠牲になった」というように言われることが多かった。このような見方は1970年代以降の魔女狩りの学術的研究の進展によって修正されており、「近世の魔女迫害の主たる原動力は教会や世俗権力ではなく民衆の側にあり、[[15世紀]]から[[18世紀]]までに全ヨーロッパで推定4万人から6万人が処刑された{{sfn|長谷川直子『はじめて学ぶイギリスの歴史「魔女文化』魔女狩り」}}」と考えられている。日本語では「魔女」と称されるため誤解されやすいが、犠牲者の全てが女性だったわけではなく、男性も多数含まれていた。
 
妖術に対する恐れは過去のヨーロッパのみならず多くの社会に普遍的にみられる人類学的事象であり、20世紀以降も[[アフリカ]]、[[パプアニューギニア]]、[[インド]]などで妖術の容疑者に対する迫害が行われたことが報告されている{{sfn|W. ベーリンガー『魔女と魔女狩り』|p=325}}。それら非ヨーロッパ諸国の現代の魔女狩りとヨーロッパの歴史的魔女狩りとの類似点に鑑み、魔女狩りの定義を拡大適用して時代や地域の限定から解き放つ必要が生じている{{sfn|W. ベーリンガー『魔女と魔女狩り』|p=8}}。
 
== ヨーロッパにおける魔女狩り ==
古代以来、何らかの超自然的な手段で他者を害することのできる人がいると信じられていた。ヨーロッパにおいてこの信仰は[[ラテン語]]で{{仮リンク|マレフィキウム|en|Maleficium (sorcery)}}と呼ばれる「害悪魔術」の概念につながっていく<ref group="註">「悪行」を意味するラテン語の maleficium は、古代ローマで遅くとも4世紀には妖術を意味する言葉としても使われるようになり、その概念は中世ヨーロッパに引き継がれた(コーン, 山本訳 1983, p. 199)。</ref>。
 
ギリシア語のパルマコン (pharmakon) は医薬と毒薬という両義性をもつ言葉で、これから古代ギリシアで妖術に相当するパルマケイア (pharmakeia) という言葉が派生した<ref group="註">パルマケウス pharmakeus、女性形パルマケウトリア pharmakeutria は薬師、毒殺者、妖術師を意味する。</ref>。イオニアの古代都市テオースで、毒ないし悪しきまじない (pharmaka deleteria) で人や国家に危害を加える者は死すべし、という禁令があったことを示す史料があり、他の都市にも同様の掟があったと考えられる{{sfn|黒川正剛『図説 魔女狩り』|p=15}}。
 
古代ローマでは害悪魔術は犯罪として処罰の対象であった。[[共和政ローマ]]最初期の成文法「[[十二表法]]」では、超自然的な方法で他人の畑作物を自分のものにする行為などに対する刑罰が規定されていた。[[ティトゥス・リウィウス|リウィウス]]の『[[ローマ建国史]]』によると、疫病で多数の死者が出た前331年に、170人がウェネフィキウム(veneficium、毒殺ないし妖術)の嫌疑をかけられて処刑された。さらに前2世紀には妖術の廉で数千人規模の人々が処刑される事件が数回起こったという(前184年に約2千人、前182-180年に約3千人){{sfn|W. ベーリンガー『魔女と魔女狩り』|p=75}}。これらの事例には、社会不安の高まりがパニックを引き起こしたことや拷問の横行など、後のヨーロッパの魔女狩りと同様の特徴がみられる。
 
中世ヨーロッパでも、暴力や窃盗と並んで「呪術によって出た害」も裁きの対象となっていたが、世俗的な犯罪としての妖術には特別重い刑が科されるというわけでなく、他の犯罪と同じように被害に応じた刑が科せられていた。また、同じ呪術でも良い目的に用いられると考えられたもの、いわゆる[[白魔術]]は一般的に良いものとみなされていた。中世ヨーロッパの各地では、刑事裁判も民事裁判と同様に告発的訴訟手続を通じて行われており、原告と被告の当事者が対等の立場で争い、地元の有力者が参審人として不文律的な慣習法に基づいて判決を提案するという形式が取られていた。告訴する側が被告の有罪を証明して裁判官に認めさせることに失敗すると、告発者の方が罰を受けなければならなかった([[同害報復|タリオン]])。被告の無罪を証明する方法として[[神明裁判|神判]]や[[決闘#決闘裁判|決闘]]が行われることもあった<ref group="註">神判の一つに、縛られた被告を水に投入し、浮けば有罪、沈めば無罪とする水審がある。このような試罪法は迷信として否定されたが、水審は魔女裁判では広く用いられ、被告が自ら身の潔白を示すために申し出ることがあった。沈んでも引き上げることができるように、通常は水審を受ける者にロープが取り付けられた(牟田 2000, pp. 103-107)。</ref>。記録に残る中世の妖術裁判の事例が少ないのは、そのような訴訟手続では妖術師を裁くことが困難であったためではないか、と[[ノーマン・コーン]]は論じている。一方、中世の民衆が行った妖術師に対する私刑については、年代記等にさまざまな事例が記録されている{{sfn|ノーマン・コーン『魔女狩りの社会史』|loc=第8章}}。
 
かつて「魔女狩り」といえば、「中世ヨーロッパにおいて12世紀の[[カタリ派]]の弾圧や[[テンプル騎士団]]への迫害以降に[[ローマ教皇庁]]の主導によって[[異端審問]]が活発化し、それに伴って教会の主導による魔女狩りが盛んに行われるようになり、数百万人が犠牲になった」などと語られることが多かった。しかし1970年代以降、さまざまな研究によってこのようなステレオタイプな見方は覆されることになった。ノーマン・コーンとリチャード・キークヘファー (Richard Kieckhefer) はそれぞれ独自に、それまで14世紀前半の南仏で大規模な魔女迫害が起こったと言われていたのは、実は19世紀の小説家ラモト=ランゴンの空想の産物を歴史家が真に受けたものにすぎない、ということを明らかにした{{sfn|ライナー・デッカー『教皇と魔女』|p=40}}。実際には、記録に残っている最初の大規模な魔女裁判が起こったのは中世も終わりに近づいた15世紀前半のことであった{{sfn|ノーマン・コーン『魔女狩りの社会史』|loc=第12章}}。異端の追求は行っていても、呪術の問題は管轄外であった異端審問官が魔女狩りとかかわりを持つようになるのは、15世紀に入ってからのことである。中世のカトリック教会においては占術や呪術は取り除くべき迷信とされたが、13-14世紀の異端審問官が民衆の呪術的行為に積極的に介入することはなかった。教皇[[アレクサンデル4世 (ローマ教皇)|アレクサンデル4世]]は1258年に、異端審問官が占術や呪術の件を扱うのは、それが異端であることが明らかな場合に限ると定めた{{sfn|ライナー・デッカー『教皇と魔女』|pp=16-17}}。また、15世紀の初期の魔女裁判においても、審問を行ったのは必ずしも異端審問官ではなく、司教裁判所や世俗裁判所が異端審問的/糾問主義的(=異端審問的)な裁判手続をもって執行する場合もあった。ヨーロッパ大陸では、中世から続く当事者主義的な訴訟手続は、司直が職権として訴訟を開始し判決までを取り仕切る糾問主義的な訴訟手続に取って代わられた。教会法廷の扱う魔女裁判はやがて減少し、魔女裁判の最盛期には世俗法廷で行われるものが大半となった。この時代、ドイツの一部の村では「委員会」という組織が結成され、住民を代表して魔女を告発するだけでなく、証人を尋問したり、領邦裁判所に圧力をかけるなどして魔女迫害を推進した。イングランドでは国王の任命した職業的裁判官が各地方の巡回裁判所で魔女裁判を行った{{sfn|黒川正剛『魔女狩り - 西欧の三つの近代化』|pp=186-187}}。
 
=== 魔女狩りの展開と衰退 ===
12世紀に始まった異端審問が本格的に魔女を裁くようになったのは15世紀に入ってからであるが、それは[[ワルドー派]]が迫害を逃れて潜伏していたアルプス西部地方(スイスの[[ヴァレー州]]、フランスの[[ドーフィネ]]、[[サヴォワ]])で始められた。ノーマン・コーンによれば、記録に残るものでは[[1428年]]にスイス、ヴァレー州の異端審問所が魔女の件を扱ったものが最古であるという。もともとこの地方の異端審問所はワルドー派の追及を主に行っていたため、やがて異端の集会のイメージが魔女の集会のイメージへと変容していくことになる。悪魔を崇拝する、あるいは聖なる物品を侮辱する、子供を捕えて食べるといった魔女の集会の持つイメージはかつて異端の集会で行われていたとされたものそのままであった。孤独で社会的に阻害された魔女というイメージは当時の人々の先入見にあったものではなく、のちに生まれた伝承や[[グリム童話]]など負うところが大きいよるものである{{sfn|ジェフリ・スカール/ジョン・カロウ『魔女狩り』|p=30}}。
 
 
また、魔女の概念は当時のヨーロッパを覆っていた[[反ユダヤ主義|反ユダヤ感情]]とも結びつき、「子供を捕まえて食べるかぎ鼻の人物」という魔女像が作られていった。魔女の集会がユダヤ人にとって[[安息日]]を意味する「[[サバト (魔女)|サバト]]」という名称で呼ばれるようになるのも反ユダヤ主義感情の産物である。このように人々の間に共通の魔女のイメージが完成したのが15世紀のことであった。
 
[[Image:Malleus maleficarum, Lyon 1669, Titelseite.jpg|thumb|200px|『魔女に与える鉄槌/マレウス・マレフィカルム』題扉]]
15世紀に入ると、魔女と妖術に関する書物が一種のブームとなる。たとえば{{仮リンク|ニコラ<!--フランス語なので「ニコラス」ではない-->・ジャキエ|en|Nicholas Jacquier}}の『異端の魔女の鞭』(''Flagellum Haereticorum Fascinariorum'', 1450年)や{{仮リンク|ウルリヒ・モリトール|en|Ulrich Molitor}}の『魔女と女予言者について』(''De lamiis et phitonicis mulieribus'', 1489年)などがあり、特に有名なものとして[[ドミニコ会]]の異端審問官であった[[ハインリヒ・クラーマー]]<ref group="註">クラーマー (Kramer) またはクレーマー ({{lang|de|Krämer}}、「小売商」の意)。</ref>によって書かれた『[[魔女に与える鉄槌]](マレウス・マレフィカルム)』<ref group="註">{{読み仮名|{{lang-la-short|Malleum Maleficārum}}|マレウス・マレフィカールム}} - 直訳すると「魔女の槌」。<(1486/ref>(148767年)がある。
 
魔女狩りに対しては当時から多くの反対意見があったが、その中で特に大きな影響を与えたのが[[ヨーハン・ヴァイヤー]]であった。[[1563年]]に『悪霊の幻惑について』 (''De Praestigiis Daemonum'') を発表し、『魔女に与える鉄槌』を「まったく根拠も信仰もない」と非難している。その一方で、「やっかいな悪魔に誘惑された高位高官の人びとに対する真からの同情心」が執筆の動機であるとして、魔女狩りは悪魔の誘惑によるものであり責任は悪魔にあるとの説を展開し、これまで魔女裁判を行った者への配慮も怠らなかった。同書は大きな反響を呼び、多くの地方において魔女裁判が寛大かつ慎重に行われるようになり、魔女だとされたものが同書の論理で弁明をすることもあった。第三版の刊行時にヴァイヤーは[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|皇帝フェルディナント1世]]に「不当な魔女裁判の助長を差し押さえる特権」を請願し認められている。しかしながら、次第に魔女狩りを行う地方が増加していき、ヴァイヤーが『悪霊の幻惑について』を執筆した地においても[[1581年]]には水審と拷問が復活している{{sfn|クルト・バッシュビッツ『魔女と魔女裁判 - 集団妄想の歴史』|loc=第3部}}。
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処刑法としてはヨーロッパ大陸では[[火刑|焚刑]](火あぶり)が多く見られたが、イギリスでは[[絞首刑]]が主流であった{{sfn|ジェフリ・スカール/ジョン・カロウ『魔女狩り』|p=53}}。ほかにも[[溺死刑]]などがあった。
 
『拷問の歴史』 (''The History of Torture Throughout the Ages'') の中で{{仮リンク|ジョージ・ライリー・スコット|en|George Ryley Scott}}によると、魔女の疑いをかけられた者に対しての取調べや[[拷問]]は、通常の異端者や犯罪者以上に過酷なものでなければならないという通念がはびこっており、それだけでなく魔女に対する取調べのために新しく考案された[[拷問]]もあったという。
 
=== 時期と地域、犠牲者数 ===
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時期を見ると16世紀後半から17世紀、さらに限定すると中央ヨーロッパでは1590年代、1630年頃、1660年代などが魔女狩りのピークであり、それ以外の時期にはそれほどひどい魔女狩りは見られなかった。
 
地域別に見ると[[フランス]]は同じ国内でも地域によって差があった。<!--神聖ローマ帝国-->[[ドイツ]]では領邦ごとの君主の考え如何で魔女狩りの様相に違いがあった。[[イタリア]]、[[ヴェネツィア]]では裁判は多かったが、鞭打ちで釈放され処刑はほとんどなかった。<!--スウェーデン王国-->[[スウェーデン]]では強力な王権のもとで裁判手続が厳守されており、[[三十年戦争]]期には占領したドイツ領邦で魔女狩りを抑止していたが、17世紀中頃より大規模な魔女狩りが発生している。<!--スペイン王国-->[[スペイン]]([[バスク国 (歴史的な領域)|バスク地方]]を除く)では異端審問が行われていたが、これが魔女狩りに発展することはなかった。[[オランダ]]では1610年を最後に魔女が裁判にかけられていない。<!--その他-->[[ポーランド]]、少し遅れて18世紀の[[ハンガリー]]では激しい魔女狩りが起こった。<!--連合王国-->[[イングランド]]では1590年代がピークであったがすぐに衰退した。対照的に、イングランドに隣接し1717年以降同君連合を形成していた[[スコットランド]]では1590年代~1660〜1660年代と長きにわたっており、一方[[アイルランド]]ではほとんど見られなかった。北アメリカの植民地ではあまり見られなかったが、[[1692年]]に[[ニューイングランド]]のセイラムで起こった大規模な魔女騒動([[セイラム魔女裁判]])が例外的な事件であった。それゆえに人々に衝撃を与えアメリカの歴史に暗い影を落とした。同時に、魔女狩りの当事者による公的な謝罪が行われた唯一の事件でもあった{{sfn|クルト・バッシュビッツ『魔女と魔女裁判 - 集団妄想の歴史』|loc=第9部}}。
 
魔女狩りの犠牲者に関しての最も極端な説は、18世紀の歴史家{{仮リンク|ゴットフリート・クリスティアン・フォクト|en|Gottfried Christian Voigt}}が示しの用い算出方法に基づく900万人である。これはあまりに極端であるとしても、かつて魔女狩りについて(客観的な根拠がないまま)犠牲者数が数十万人から数百万人と見積もられていた時代もあった。しかし近年行われている一次史料からの推計によれば、魔女裁判による処刑者数は[[1428年]]から[[1782年]]までに全ヨーロッパで最大4万人であるとされており、{{仮リンク|ヴォルフガング・ベーリンガー|en|Wolfgang Behringer}}、ロビン・ブリッグス (Robin Briggs)、{{仮リンク|ロナルド・ハットン|en|Ronald Hutton}}といった研究者らはこの見解で一致している{{sfn|ジェフリ・スカール/ジョン・カロウ『魔女狩り』|p=34}}。なお、地域共同体内での[[私刑]]にあった者の数を知ることはまったく不可能なため、この犠牲者の数には含まれない{{sfn|ジェフリ・スカール/ジョン・カロウ『魔女狩り』|p=34}}。
 
1782年にスイスで行われた裁判と処刑が、ヨーロッパにおける最後の魔女裁判であるとされる<ref name="europa1782">{{Cite journal |和書 |author1=[http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/recordID/1941 ロルフ・クルムジーク] |author2=九州ベッカリーア研究会 |year=1989 |title=相対主義刑罰理論の先駆者としてのベッカリーア |url=http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/1941/KJ00000692504-00001.pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170205095858/http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/1941/KJ00000692504-00001.pdf |archivedate=2017-02-05 |format=pdf |journal=法政研究 |publisher=九州大学法政学会 |volume=58 |issue=2 |issn=0387-2882 |doi=10.15017/1941 |page=348 |accessdate=2018-04-26 |quote=ゲルハルト・ダイムリンク編『チェザーレ・ベッカリーア/ヨーロッパにおける近代刑事司法の始祖』(1989年)(一) }}</ref>。
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==== フェミニストの主張 ====
魔女狩りという言葉は1970年代アメリカでフェミニストの研究者たちによって、キリスト教誕生以降起こったすべての女性への迫害を指す言葉として用いられるようになり、その犠牲者数は19世紀に女性の権利を訴えていた著述家{{仮リンク|マティルダ・ジョスリン・ゲージ|en|Matilda Joslyn Gage}}が述べた900万人とした。なお、W・ベーリンガーによるとこの犠牲者数は、19世紀の教会史家グスタフ・ロスコフの『悪魔の歴史』で900万人と最初発表され、その数字が当時のプロテスタントの著述家ら算定し受容されである。そして、さらに遡及するとその数字啓蒙時代18世紀の学者ゴットフリート・クリスティアン・フォクトであっの用い推計方法に基づいているということが1990年代に判明している{{sfn|W. ベーリンガー『魔女と魔女狩り』|pp=226-227}}。
 
魔女狩りは時に「女性へのホロコースト」という言い方をすることもある。しかし、現代の研究者たちは、女性に対する敵視が魔女狩りの原動力の一つであったことは否定しない一方で、たとえば[[アイスランド]]では裁判を受けたものの80%が男性であったように、魔女裁判の被告が必ずしも女性だけでなかったということも明らかにしている。
 
==== 社会制御手段説 ====
ラーナーとJ・H・エリオット (J. H. Elliott)、{{仮リンク|ロベール・シャンブレッド|fr|Robert Muchembled}}は、魔女狩りは権力者が弱者に対する支配を拡大強化のために使ったとする、社会制御手段説を主張した{{sfn|ジェフリ・スカール/ジョン・カロウ『魔女狩り』|pp=79-82}}。この理論は、もっともだと思われる点がある一方で、権力者が白魔術に対して寛容であったのはなぜか、あるいはなぜ教会や世俗権力が中央集権化した中世盛期に魔女と魔術を放置しており、近世初期になって突如魔女狩りが始まったのかを説明できない、権力者を一概に悪に決め付けているなどの批判がある。
 
==== 固く信じられていた魔女の存在 ====
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*{{Cite book|和書|author=ライナー・デッカー |others=佐藤正樹・佐々木れい 訳 |date=2007-11-1 |title=教皇と魔女―宗教裁判の機密文書より |publisher=法政大学出版局 |series=叢書・ウニベルシタス |isbn=4588008757 |ref={{SfnRef|ライナー・デッカー『教皇と魔女』}} }}
*{{Cite book|和書|author=黒川正剛 |year=2011 |title=図説 魔女狩り |publisher=河出書房新社 |series=ふくろうの本 |ref={{SfnRef|黒川正剛『図説 魔女狩り』}} }}
*{{Cite book|和書|author=長谷川直子 |others=指昭博編著 |year=2012 |title=はじめて学ぶイギリスの歴史と文化 |chapter=魔女と魔女狩り |publisher=ミネルヴァ書房 |ref={{SfnRef|長谷川直子『はじめて学ぶイギリスの歴史「魔女文化』魔女狩り」}} }}
*{{Cite book|和書|author=W. ベーリンガー |others=長谷川直子 |year=2014 |title=魔女と魔女狩り |publisher=刀水書房 |isbn=9784887084131 |ref={{SfnRef|W. ベーリンガー『魔女と魔女狩り』}} }}
*{{Cite book|和書|author=黒川正剛 |year=2014 |title=魔女狩り - 西欧の三つの近代化 |publisher=講談社 |series=講談社選書メチエ |ref={{SfnRef|黒川正剛『魔女狩り - 西欧の三つの近代化』}} }}