「東興の戦い」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
6行目:
|conflict=東興の戦い
|date=[[252年]]
|place=東興(現在の[[安徽省]][[馬鞍山市]][[含山県]]南西に位置する
|result=諸葛誕は諸葛恪に大敗し、東興から撤退
|combatant1=[[呉 (三国)|呉]]
18行目:
|}}
 
'''東興の戦い'''(とうこうのたたかい)は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[252年]]に、[[呉 (三国)|呉]]と[[魏 (三国)|魏]]の間で起きた戦い。魏の[[大将軍]][[司馬師]]は、呉帝[[孫権]]の死に乗じて[[諸葛誕]]・[[胡遵]]らに東興(現在の[[安徽省]][[馬鞍山市]][[含山県]]南西)を攻めさせたが、呉の大将軍[[諸葛恪]]の前に大敗を喫した。東関の役とも呼ばれる。
 
==事前の経緯==
252年10月、呉帝孫権が崩御すると、魏の征東将軍[[胡遵]]は[[毌丘倹]]、[[王昶]]と共に呉征伐を計画し上奏した。呉の大将軍諸葛恪は、魏の襲来を想定し[[巣湖]]周辺の東興にある堤防の改築を行った。この堤防は、かつて呉帝孫権が築いたものであり、諸葛恪はこれを補強して堤の左右の山地に堤を挟む形で二つの城を築いた。また、[[全端]]と[[留略]]に千人の兵士をそれぞれ与えて二つの城を守らせた<ref>(恪以建興元年十月會衆於東興,更於堤左右結山,挾築両城,各留千人,使全端、留略守之,引軍而還。) 三国志 巻64</ref><ref>(漢晋春秋曰:初,孫權築東興堤以遏巣湖。後征淮南,壊不復修。是歳諸葛恪帥軍更於堤左右結山,挾築両城,使全端、留略守之,引軍而還。) 三国志 巻4</ref>。
 
==戦いの経緯==
252年12月、魏の大将軍司馬師は鎮東将軍[[諸葛誕]]、[[胡遵]]らに呉への侵攻を命じ、安東将軍[[司馬昭]]を監軍として随行させた。諸葛誕は軍を3路に分けて進軍し、豫州諸軍事[[王昶]]・荊州諸軍事[[毌丘倹]]には陽動のため南郡(現在の[[湖北省]][[荊州市]])と武昌(現在の[[湖北省]][[鄂州市]])をそれぞれ攻撃させ、諸葛誕自身は七万の兵を率いて東興に向かった<ref> (魏以呉軍入其疆土,恥於受侮,命大将胡遵、諸葛誕等率衆七萬,欲攻圍兩塢,圖壊堤遏。) 三国志 巻64</ref>。東興に進軍した諸葛誕らは堤を決壊させるべく、船を並べて浮橋を築いて渡り堤の上に進軍して陣を張った。そして、全端・留略が守る堤の左右の山地に築かれた二つの城に攻撃をかけたが、地勢が険しかったためなかなか落とすことはできなかった。
 
これに対し呉軍は、諸葛恪が軍の指揮に当たり、[[丁奉]]・[[留賛]]・[[呂拠]]・[[唐咨]]らを先鋒として東興に軍を進めた。先鋒部隊が長江を越えて東興に上陸すると、山岳地帯を通って西方に向かい上流に出ようとした。このとき、丁奉は味方の各軍団の動きが遅いことを見て、敵に先手を取られないよう迅速に行軍するため、味方とは別行動をとり一人で三千の兵を率いて敵陣に急行した。ちょうど北風が吹いていたので、丁奉は船に帆をかけて二日で戦場に到着し、徐塘という地に陣営を張った。そして、敵陣を視察すると雪が降るような寒い日であったため、敵の武将たちが宴会を開いて完全に油断をしきっていた。丁奉は魏軍の前衛が薄いのを見て取り、兵士を鼓舞しつつ鎧を脱がせて冑に剣だけを持たせて奇襲をかけ、前衛陣地を散々に撃破した。その時、呂拠らが遅れて戦場に到着し、ともに攻撃して魏軍を大破させた。