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オクヤマ (会話 | 投稿記録)
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カチュラの息子もやはり食物に猛々しい人物だったため、カチウ家の子孫を「大バルラ(也客把<sup>舌</sup>魯剌 Yeke Barula)」、カチュラ家の子孫を「小バルラ(兀出干把<sup>舌</sup>魯剌 Üčǖgen Barula)」と名付けて、両者をあわせてにバルラス部となったという<ref>村上正二(訳注)『モンゴル秘史 1』p45(注14)</ref>。のちのチンギス・カン家を輩出する[[キヤト氏]]と[[タイチウト氏]]とは祖先を同じくしていたことになる。『元朝秘史』によれば、最初の[[カガン|カン]](ハン)となった[[カブル・カン]]、[[アンバガイ・カン]](カブル・カンの又従兄弟)と同族とする[[ボルジギン氏]]に繋がる有力家系であったと伝わる。
 
カチュリの子孫はカブル・カンの子孫[[キヤト氏]]族に従い、キヤト氏のチンギス・カンに仕えた[[カラチャル・ノヤン]]は[[モンゴル帝国]]の[[ミンガン|千人隊長]]のひとりとなり、チンギスの次男[[チャガタイ]]の[[ウルス]](所領)に配属された。[[13世紀]]中頃にチャガタイ・ウルスが[[イリ川]]の渓谷に移るとこれに従い、さらに[[14世紀]]に[[チャガタイ・ハン国]]を形成して[[中央アジア]]の広い地域を支配するようになるとバルラス部も散らばった。他に特にバルラス部族出身者で有名な人物はいわゆる「[[四狗]](ドルベン・ノガス)」のひとり[[クビライ (バルラス部)|クビライ]]がいる。
 
==ティムール朝の台頭とバルラス部族神話==