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[[ファイル:DiegoPortales.jpg|thumb|upright|{{仮リンク|ディエゴ・ポルターレス|en|Diego Portales}} 保守派支配の下で1833年憲法を制定し、当時のチリをラテンアメリカでもまれな安定した国家とし、後のチリの強国化の礎を築いた。]]
 
16世紀以来チリはスペインの植民地であったが、[[ナポレオン戦争]]による[[ヨーロッパ]]の混乱と、フランス皇帝[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン・中島]]
16世紀以来チリはスペインの植民地であったが、[[ナポレオン戦争]]による[[ヨーロッパ]]の混乱と、フランス皇帝[[ナポレオン・ボナパルト]]が兄の[[ジョゼフ・ボナパルト]]を[[スペイン王]]ホセ1世に据えたことに対する、スペインでの民衆蜂起が発端となった[[スペイン独立戦争]]が勃発すると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。[[ラパス]]や[[キト]]、[[ボゴタ|サンタフェ・デ・ボゴタ]]といった各地で[[クリオーリョ]]の間に独立運動の気運が高まる中、チリでも1810年に[[ブエノスアイレス]]で勃発した[[五月革命 (アルゼンチン)|五月革命]]<ref>自治組織を作って独立を志向するクリオーリョのグループの民兵の指揮官サアベドラは、副主と市会に対して「開かれた市会」(カピルド・アピエルト)の開催を要求し、それは5月22日に開かれた。その結果、5月25日に民兵の指揮官のサアペドラが議長となり、革命派を含む政治委員会が成立した。この政治委員会は、自由貿易を認めた。これはクリオーリョの政権奪取であり、スペイン人のアメリカ統治の否認であった。増田義郎「南アメリカ諸国の独立」183-188ページ</ref><ref name="minamiame">増田義郎編『新版世界各国史26 ラテン・アメリカ史II 南アメリカ』山川出版社 2000年</ref> の影響により、クリオーヨ達は「開かれた市会」(カピルド・アピエルト)の開催を要求し、同年[[9月18日]]に開かれ、政治委員会の設立が決議された({{仮リンク|パトリア・ビエハ|en|Patria Vieja}})。1811年2月21日の法令で、チリの港を国際貿易に解放することが定められ、スペイン領アメリカの主要都市に置かれていた当時組織アウディアンシアの廃止を決定された。{{仮リンク|フアン・マルティネス・デ・ロサス|en|Juan Martínez de Rozas}}がサンティアゴ・デ・チレに自治政府を創設し、国民議会を招集して[[奴隷]]の輸入禁止、奴隷の子の自由を保障する決議などを行った。さらに独立を志向する自由主義者達は、共和国建設を計画はじめていた。<ref name="minamiame" /><ref>増田義郎「南アメリカ諸国の独立」188-189ページ</ref>
 
16世紀以来チリはスペインの植民地であったが、[[ナポレオン戦争]]による[[ヨーロッパ]]の混乱と、フランス皇帝[[ナポレオン・ボナパルト]]が兄の[[ジョゼフ・ボナパルト]]を[[スペイン王]]ホセ1世に据えたことに対する、スペインでの民衆蜂起が発端となった[[スペイン独立戦争]]が勃発すると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。[[ラパス]]や[[キト]]、[[ボゴタ|サンタフェ・デ・ボゴタ]]といった各地で[[クリオーリョ]]の間に独立運動の気運が高まる中、チリでも1810年に[[ブエノスアイレス]]で勃発した[[五月革命 (アルゼンチン)|五月革命]]<ref>自治組織を作って独立を志向するクリオーリョのグループの民兵の指揮官サアベドラは、副主と市会に対して「開かれた市会」(カピルド・アピエルト)の開催を要求し、それは5月22日に開かれた。その結果、5月25日に民兵の指揮官のサアペドラが議長となり、革命派を含む政治委員会が成立した。この政治委員会は、自由貿易を認めた。これはクリオーリョの政権奪取であり、スペイン人のアメリカ統治の否認であった。増田義郎「南アメリカ諸国の独立」183-188ページ</ref><ref name="minamiame">増田義郎編『新版世界各国史26 ラテン・アメリカ史II 南アメリカ』山川出版社 2000年</ref> の影響により、クリオーヨ達は「開かれた市会」(カピルド・アピエルト)の開催を要求し、同年[[9月18日]]に開かれ、政治委員会の設立が決議された({{仮リンク|パトリア・ビエハ|en|Patria Vieja}})。1811年2月21日の法令で、チリの港を国際貿易に解放することが定められ、スペイン領アメリカの主要都市に置かれていた当時組織アウディアンシアの廃止を決定された。{{仮リンク|フアン・マルティネス・デ・ロサス|en|Juan Martínez de Rozas}}がサンティアゴ・デ・チレに自治政府を創設し、国民議会を招集して[[奴隷]]の輸入禁止、奴隷の子の自由を保障する決議などを行った。さらに独立を志向する自由主義者達は、共和国建設を計画はじめていた。<ref name="minamiame" /><ref>増田義郎「南アメリカ諸国の独立」188-189ページ</ref>
 
{{仮リンク|ホセ・ミゲル・カレーラ|en|José Miguel Carrera}}の指導する自治政府は、ペルー副王{{仮リンク|ホセ・フェルナンド・デ・アバスカル・イ・ソーザ|en|José Fernando de Abascal y Sousa|label=アバスカル}}が派遣した王党軍との{{仮リンク|ランカウアの戦い|en|Battle of Rancagua}}(1814年)で敗北したことによって崩壊し、再びスペインの支配を受けた(レコンキスタ)。独立指導者 [[ベルナルド・オイギンス]]は{{仮リンク|リオ・デ・ラ・プラタ諸州連合|en|United Provinces of the Río de la Plata|label=ラ・プラタ連合州}}(現[[アルゼンチン]])に亡命し、[[解放者]][[ホセ・デ・サン=マルティン]]の率いる{{仮リンク|アンデス軍|en|Army of the Andes}}と共に'''{{仮リンク|アンデス山脈越え|en|Crossing of the Andes}}'''を行い、1817年の{{仮リンク|チャカブコの戦い|en|Battle of Chacabuco}}に勝利し、再びチリに入った。サン=マルティンはチリ議会からチリ総督になることを要請されたが、これを拒否したため、1818年にオイギンスがチリの独立を宣言し、初代大統領となった。同年中にチリ=ラ・プラタ連合軍が{{仮リンク|マイプーの戦い|en|Battle of Maipú}}で[[スペイン軍]]を破ると、チリのスペインから独立が確定した。その後サン=マルティンはペルーに向かい、[[シモン・ボリーバル]]と共にペルーを解放することになる。