「東京慈恵会医科大学」の版間の差分

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== 沿革 ==
=== 略歴 ===
東京慈恵会医科大学の起源は、[[高木兼寛]]によって1881年(明治14年)5月1日に創立された[[医術開業試験]]の受験予備校(乙種[[医学校]])『成医会講習所に始ま』であ<ref>[http://ir.jikei.ac.jp/bitstream/10328/3455/3/TK_igaku_514.pdf 慶応義塾医学所,済生学舎,成医会講習所]</ref>。高木は1875年(明治8年)から5年間、海軍生徒として英国セント・トーマス病院医学校(現: [[ロンドン大学]]群[[キングス・カレッジ・ロンドン]]医学部)に学び、このように権威のある医学校を日本につくりたいと思っていた。高木は帰国後、廃止された[[慶應義塾医学所]]に関わっていた[[松山棟庵]]とともに1881年(明治14年)1月、成医会なる研究団体を設立し、次いで同5月にこの成医会講習所を設立している。
 
その後、高木は戸塚文海とともに、1882年(明治15年)、有志共立東京病院なる慈善病院を発足させている。この病院の設立趣意には「貧乏であるために治療の時期を失したり、手を施すことなく、いたずらに苦しみにさらされている者を救うこと」にあるとしている。このような趣意も、高木が英国留学中に受けた人道主義や博愛主義の強い影響による。同病院の資金は有志の拠金によるものであり、有志共立という名はそのためであった。病院総長としては有栖川威仁親王を戴き、また[[大日本帝国海軍]]軍医団の強い支援があった。
 
有志共立東京病院は、こうした慈善病院のほかに医学教育の場としても重要な役割を果たし、成医会講習所や[[海軍軍医学校]]の実習病院の役割を担った。これも、英国で経験した慈善病院と医学校の関係を東京に実現しようとしたものである。1887年(明治20年)、同病院は皇后を総裁に迎え、その名も東京慈恵医院と改め、経費は主に皇室資金によることになった。成医会講習所も成医学校に、次いで東京慈恵医院医学校に改称され、同病院構内(芝区愛宕町二丁目、現港区西新橋三丁目)に移転した。
 
有志共立東京病院時代の特筆すべき事業の一つに看護婦教育所の設立がある。英国留学時代、セント・トーマス病院に付設されていたナイチンゲール看護学校を目撃した高木は、日本の近代看護教育の導入にも極めて積極的であった。彼は1884年(明治17年)10月、米国女性宣教師のリードを招き看護婦教育を実践した。これが日本での近代看護教育の始まりである。第一回生はわずか5名であったが、総裁皇后の臨席を得て卒業式が行われた。現在の慈恵看護専門学校及び医学部看護学科、大学院医学研究科看護学専攻修士課程はこの流れを汲むものである。