「ニコラ・シュビッチ・ズリンスキ」の版間の差分

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1543年、ニコラはカタリナ・フランコパン(スチェパン・フランコパン・オザリスキ伯の姉妹)と結婚し、彼女の持つ多くの所領を継承した。彼女との間には多くの子供が生まれ、ニコラの後を継いだのはユーライ(Juraj)であった。[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]は、ニコラに[[ハンガリー王国|ハンガリー]]とクロアチアに大きな資産を授けた。そのために彼はクロアチア人有力者としてほとんど[[マジャル人]]と同格になっていった。1556年、ニコラは対オスマン帝国との連戦に勝利し、バボーチャの戦いで絶頂期に達した。
 
しかしクロアチア人たちは、ニコラがマジャル人のために戦っているから同胞をないがしろにしているという非難で、自分たちのバンを苦しめ、皇帝は同時期に彼から上クロアチアの職を奪った。そしてニコラをクロアチア側を支援する目的で1万人の兵と送り込んだ。その時、マジャル人は他国からの支援なしに孤立していた。1563年、ハンガリー王として皇帝[[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]が戴冠した際、ナダスディ・トマシュの死後空席となっていた、ハンガリーの宮宰という高位を獲得しようとかいのない望みを抱いて、ニコラは式典に3000人のクロアチアとマジャルの騎馬貴族の統領として出席した。1564年に二度目の妻エヴァ・ロジュンベルク(ボヘミアの裕福な女性相続人)と再婚したすぐ後、彼は軍政国境地帯を守るために急いで南進し、[[セゲド]]でトルコ軍を敗退させた。1566年8月5日から9月7日まで、彼の小部隊(2,300人)は、[[スレイマン1世]]自ら率いる90,000人ものトルコ軍に対して、[[シゲトヴァール]]の小さな要塞を英雄的に守り抜いた([[シゲトヴァール包囲戦]])。は、絶望的な出撃の中のズリンスキや駐屯していた兵全員の戦死で幕を閉じた<ref>Count Miklos Zrinyi (1508—1566), [[ブリタニカ百科事典第11版]]</ref>。
 
==遺物==