「千住火力発電所」の版間の差分

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[[第二次世界大戦]]中には予備発電所から昇格し、常時稼働設備として本格発電を開始する。[[東京大空襲]]を始めとする東京地区への複数回の[[空襲]]でも標的とされることはなく<ref>1942年4月18日に行われたアメリカ軍の[[東京初空襲]]([[ドーリットル空襲]])では[[陸軍造兵廠|東京第一陸軍造兵廠]]を目標としていた機体が位置を誤って[[隅田川]]対岸西方にある[[荒川区]][[西尾久]]を爆撃しており、当発電所の近傍を通過しているが、被害は受けていない。「千住火力発電所も攻撃目標とされていた」とする新聞記事や文献等もあるが(東京新聞 2012年4月16日『本土初空襲から70年 爆心地の記憶 風化させぬ』「[http://tamutamu2014.web.fc2.com/hatukuusyuu.htm たむたむ(多夢・太夢)ホームページ>本土初空襲(ドゥ〈-〉リットル空襲)]」)、アメリカ軍の計画において目標として選定されていたかについては不明である。</ref>、発電所本体・煙突群共に被害を受けることなく終戦を迎えた。
 
第二次世界大戦後も引き続き東京地区への発電を担ったが、戦後になって石炭の質が低下したことから、[[1953年]]([[昭和]]28年)には3号機の[[ボイラー]]が[[重油]]焚き専用に切り替えられた。しかし施設の老朽化と[[豊洲]]に[[新東京火力発電所]]が建設されたことなどを理由に、[[1963年]](昭和38年)5月に稼働を停止し、[[1964年]](昭和39年)3月28日には早朝より煙突の撤去作業が始まり、同日の午後3時半までには全ての煙突が引き倒された<ref>[[朝日新聞]]1964年3月29日朝刊記事。<br />但し、[[毎日新聞]]1964年8月27日記事には、おばけ煙突がいよいよ月末からとりこわされることになり、8月26日「煙突とお別れの会」が開かれたと記されている。[https://www.facebook.com/shouwanews/photos/pcb.539918823008349/539919406341624/?type=3&theater さようなら おばけ煙突(新聞資料出版)]。</ref> 。
ところが、[[帝京科学大学]]千住キャンパス内の「お化け煙突モニュメント」プレートには、「千住火力発電所は、昭和39391111月に解体され、…」と記されている<ref>[http://towerwww.30mapshasupy.com/mapsepia/obake/now_obake.html/12177 現在のけ煙突]塔マップ(2012年9月9日更新)昭和の想い出 はすぴー倶楽部>おばけ煙突。<br />他の資料として、足立区立郷土博物館のwebページ([https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/shiryo-obakentotsu.html 足立区立郷土博物館トップページ>郷土博物館の資料>おばけ煙突])では「''老朽化と効率化のため昭和38(1963)年に発電所が解散され、翌年秋から解体工事を実施、11月末には完全に姿を消してしまいました。''」と記述されており、1964年の10月に撮影されたという写真で煙突の下部と発電所の建物が残っている状態で写っているものが投稿されている例([http://www.senjumonogatari.com/obakeentotu.htm 千住物語>昔 東京で おばけ煙突と呼ばれる煙突があった>1964年 昭和39年 お化け煙突 解体])もある。また、1964年8月26日に取り壊された説も存在する。「こち亀」59巻のエピソード。[http://konomanga.jp/guide/9551-2 きょうのマンガ]。</ref>。
 
== 所在地 ==
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2つ目の説については煙突が[[菱形]]に配置されており、また、中心に2本並列していた煙突と前後にあった煙突が重なり合って、真横から見ると1本、斜めから見ると2本ないしは4本、真正面から見ると3本に見えた、というところからである。[[日本国有鉄道|国鉄]](当時)[[常磐線]]や[[京成本線]]を走る列車内からもこの煙突は良く見え、移動に伴う本数の変化が眺められた。
 
煙突の解体が決定した1963年(昭和38年)、8月26日午前10時より煙突の下で地元住民による「お化け煙突、おわかれ会」が開催された?<ref>但し、[[毎日新聞]]1964年8月27日記事には、おばけ煙突がいよいよ月末からとりこわされることになり、8月26日「煙突とお別れの会」が開かれたと記されている。[http://www.ss-s.co.jp/blog/?id=1511484337-819030 おばけ煙突の記事-昭和編年史39年版IVより(新聞資料出版)]2017年11月24日付ブログ。</ref> 。また、12月には解体・撤去を反対する者が煙突によじ登り、84時間にも渡って篭城するという騒ぎも発生している。
 
=== その他の“お化け煙突” ===
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[[足立区立郷土博物館]]には往時の千住火力発電所について記した大型パネルと発電所の[[模型]](200分の1)が常設展示されており<ref>[http://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/edo-2gallery.html 足立区公式サイト>足立区立郷土博物館トップページ>常設展示 江戸東京の東郊階ギャラリー>東郊の近代的発展「東郊の近代産業」]</ref>、模型は現時点ではもっとも詳細なものである。同発電所に勤務していた元東京電力社員の姫野和映の監修を受け、東京電力の[[電気の史料館]]の資料協力などを得て[[2009年]]に制作された。模型は見る位置によって煙突の本数が変わる様子が擬似体験できる。
 
東京都[[台東区]][[西浅草]]にあったテプコ浅草館では、「東京浅草下町ストーリー」として明治から昭和初期にかけての浅草の下町の情景を再現展示しており、する「東京浅草下町ストーリー」の展示物の1つとしてお化け煙突の模型(200分の1)と映像・写真が展示されていたが、同館は[[東日本大震災]]の影響で2011年5月閉館された。
 
煙突の一部は「[[2005年]]([[平成]]17年)[[3月31日]]まで存在していた[[足立区立元宿小学校]]<ref>現在は足立区[[千住寿町]]にあった[[足立区立千寿第三小学校]]と統合し[[足立区立千寿双葉小学校]]となり、統合小学校の校舎は旧千寿第三小学校跡地に新設された。</ref>で[[すべり台|滑り台]]に使用されていた。この滑り台は発電所の煙突を幅3メートルほどに輪切りしたものを、さらにUに半分にカットしたもので、太鼓橋状に2個の滑り台が設置されていた<ref>[http://www.hasupy.com/sepia/obake/obake.htm 昭和の思い出 はすぴー倶楽部>「あの頃」のセピア色の想い出>おばけ煙突]</ref>。
 
この滑り台は、旧元宿小学校が統合・閉鎖された後は、[[帝京科学大学]]千住キャンパスの敷地内に、滑り台とするためにカットされた部分をコンクリートにより再現したモニュメントとして保存されている<ref>[http://www.senjumonogatari.com/obakeentotu.htm 千住物語 > お化け煙突]</ref>。
 
== 登場作品 ==