「ドミートリー・ドンスコイ」の版間の差分

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== 生涯 ==
1359年、9歳のときにモスクワ公の位を相続した。幼少のころは府主教アレクセイが摂政として彼を支えた。即位後、まもなく、[[トヴェリ公国]]の侵攻を受けたが、これを退けた。[[1363年]]には全[[ロシア]]の公の指導者となり、[[1368年]]にはトヴェリ公国と[[リトアニア大公国]]の[[モスクワ・リトアニア戦争 (1368年-1372年)|侵攻]]を撃退した。この頃、モスクワ大公国の[[宗主国]]であった[[ジョチ・ウルス]](キプチャク・ハン国)は[[サライ (都市)|サライ]]の[[ハーン|ハン]]位を巡る混乱から分裂しており、そのうちルーシ諸公国と直接に境を接する[[ヴォルガ川]]以西の[[黒海]]北岸には、[[ママイ (キヤト部)|ママイ]]を支配者とする政権(ママイ・オルダ)があった。[[1371年]]、ドミートリーは、ママイのもとにおもむき、その権威のもとに[[ウラジーミル・スーズダリ大公国|ウラジーミル大公]]位を獲得している。
 
その後、ドミートリーはママイと敵対し、[[1380年]]、[[クリコヴォの戦い]]でこれを破った。この戦いはルーシの諸公国にとっては[[タタール]]に対する史上最初の大勝であり、モスクワ大公国の威信と勢力を拡大することに大きな影響を残した。また、ロシアが「[[タタールのくびき]]」から脱却する最初のきっかけになった事件とも評価されている。しかしその後には、ママイを滅ぼしてジョチ・ウルスを再統一した[[トクタミシュ|トクタミシュ・ハン]]は再びロシアに対するタタールの宗主権を主張してモスクワ大公国を攻撃し、首都モスクワを占領した。ドミートリーはトクタミシュに対して改めて臣従を誓い、大公の地位と、徴税の権利を再び認められた。[[1389年]]、彼はこれまでの慣例を破り、ハンの同意を得ずに息子[[ヴァシーリー1世]]を後継者に指名して没した。また、遺言状の中で「ハン国が動揺することがあれば貢納を停止せよ」と述べた。