「長州征討」の版間の差分

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=== 長州藩の動き ===
[[7月21日 (旧暦)|7月21日]]、国司親相、益田親施、福原元{{CP932フォント|僴}}の三家老に続いて[[京都]]へ向かった毛利定広が[[讃岐国|讃岐]][[多度津町|多度津]]で[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]に勃発した[[禁門の変]]の敗戦を聞き山口へ向けて引き返した。[[7月27日 (旧暦)|27日]]、[[三田尻]](現在の[[防府市]])において藩主父子、三支藩藩主、老臣が善後策を協議、[[7月30日 (旧暦)|30日]]、毛利敬親は山口に戻り人心を落ち着かせて吉川経幹に対外的な周旋を頼んだ。また山口政庁は三家老の職を解き禁門の変の顛末を誰問の上で徳山藩に預けて謹慎させた。
 
[[八月十八日の政変]]の後と同様に藩政を誤らせた[[長州正義派|正義派]]へ[[俗論党]]は反発を強めた。前回は萩から山口へ[[椋梨藤太]]、[[村岡伊右衛門]]ら俗論派が出てきて[[毛利登人]]、[[前田孫右衛門]]、[[周布政之助]]ら正義派を免職させたが、奇兵隊という武力を背景とした高杉晋作がひっくり返して、逆に[[坪井九右衛門]]は切腹させられた。今回は俗論党の影響下にある先鋒隊の壮士たちが続々と山口へ入った。[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]に吉川経幹が山口に入ると[[9月8日 (旧暦)|8日]]に奇兵隊を含む諸隊は経幹と接見、上申書を奉じ幕府への武備恭順を迫り、これに対抗して[[9月20日 (旧暦)|20日]]に萩藩士100名以上が山口に上った。山口藩庁は暴発を避けるため城代の毛利将監、目付の村尾治兵衛から慰撫しようとしたが果たせず[[9月22日 (旧暦)|22日]]、萩側は経幹へ幕府への謝罪恭順を通すように迫った。経幹はこれを慰撫して藩内の騒動を収め、同日に敬親へ告げその場で城代と目付は経幹の労に謝したが、山口側は萩側の圧力を無視できなくなった。