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== 来歴 ==
[[山崎年信]]の門人、本名伊之助。[[大坂]]の生れで、もとは[[尾上多見蔵 (2代目) |二代目尾上多見蔵]]門下の多見尾という[[女形]]役者であった。後に[[高知]]に巡業のため多蔵とともに来る。明治15年(1882年)、山崎年信の門人となる。『[[土陽新聞]]』で小説の挿絵を描いた年信が土佐を去るとその後任に選ばれ、明治22年(1889年)2月頃まで『土陽新聞』で[[挿絵]]を描いた。その後、大阪に出て『東雲新聞』の挿絵を手掛ける。さらに[[黒岩涙香]]が『[[萬朝報]]』の経営に苦しんでいた時、無報酬で同紙の挿絵を描いたことで涙香の知遇を得、東京[[浅草]]に住いを移し『萬朝報』の挿絵を描く。また涙香の小説の口絵を担当する。晩年は奈良[[信貴山]]に住み同地にて没す。享年85。挿絵のほか[[錦絵]]も残す。門人に沖野一秋がいる。
 
== 作品 ==