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ポーランドは西(ドイツ)と東南(ウクライナ)の2つの方向が平原となっている地形のため[[先史時代]]から陸上での人の往来が多く、東西の文化が出会い融合する文化的刺激の多い土地だったようである。たとえば、7500年前の「世界最古の[[チーズ]]」製造の痕跡がポーランドで発見されている<ref>{{cite web|url=http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2916512/9989394?ctm_campaign=txt_topics|title=7000年前にチーズ作り、土器に証拠発見 ネイチャー|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref><ref>http://mainichi.jp/feature/news/20121213reu00m030007000c.html</ref>ことや、[[インド・ヨーロッパ語族]]の言語やその話し手のヨーロッパにおける発展の非常に重要な段階とみられる[[球状アンフォラ文化]]やそれを継承した[[戦斧文化|縄目文土器文化]]、[[ルサチア文化]](ラウジッツ文化とも)の中心地がポーランドである事実、などが挙げられる。
 
ポーランド人の基幹部族となったレフ族/ポラン族については、[[古代ローマ]]時代の歴史家[[タキトゥス]]の本『[[ゲルマニア (書物)|ゲルマニア]]』の中で現在のポーランド南西部に住んでいたと書かれている「{{仮リンク|ルギイ人 (タキトゥス)|en|Rugii|label=ルギイ族}}」<ref>Lugii</ref>との関連が指摘されている。彼らは「[[プシェヴォルスク文化]]」と呼ばれる、周辺の[[ゲルマン人|ゲルマン]]諸部族とは異なる独特の文化を持つ集団で、ルギイ族は[[ヴァンダル族]]の別名か、あるいはヴァンダル族は複合部族でルギイ族はその一つではないか、とされている。プシェヴォルスク文化は、当時[[ゴート族]]のものと推定される[[ヴィスワ川]]東岸付近一帯の[[ヴィェルバルク文化]]を挟んではるか東方にあった原[[スラヴ人]]の「[[ザルビンツィ文化]]」と似通っていることが[[考古学]]調査で判明しているため、原スラヴ系の文化の一つといえる(詳しくは、[[プシェヴォルスク文化]]、[[ザルビンツィ文化]]、[[ヴィェルバルク文化]]の記事を参照)。プシェヴォルスク文化とザルビンツィ文化は共通した文化圏で、元は一つであり、ヴィスワ川河口付近からゴート族が入り込み間に割って入って川を遡上しながら南下していったためこの文化圏が西方のプシェヴォルスク文化と東方のザルビンツィ文化に分裂したものと考えられる。インド・ヨーロッパ語族の[[イラン系民族]]の[[サルマタイ人]]や[[スキタイ]]人が定住していた。[[バルト人]]、[[トルコ人]]もこの地域に住んでいた。
 
[[ファイル:Piastus.PNG|thumb|right|180px|レフ族(ポラン族)の長ピャスト。]]
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992年にミェシュコ1世の息子[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]]が後を継ぐと、この新しいポーランド公は西欧キリスト教世界におけるポーランド公国の領土を画定し、中央政府の権力を強め、武力によって国家を統合した。彼が確定したポーランド公国領は現在のポーランド領とほぼ一致する。彼は[[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]や[[ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ2世]]の[[神聖ローマ帝国]]、[[クヌート1世 (イングランド王)|クヌーズ2世]]の[[デンマーク]]と積極的に外交した。[[1000年]]、オットー3世はポーランド公国の首都[[ポズナニ]]近郊の[[グニェズノ]]へ自ら赴いてボレスワフ1世と会談し、そこに[[大司教|大司教座]]を置くことに合意した。ポーランド大司教座は以後現在に至るまでグニェズノにあり、グニェズノ大聖堂の扉はこの時代に製作されたものである。ボレスワフ1世は必ずしも[[神聖ローマ皇帝]]の権威を受け入れたわけではなかった。彼は神聖ローマ帝国領であった南の[[ボヘミア]]へ軍を進めて[[1004年]]に自らボヘミア公となり、[[1018年]]に東へ軍を進めて[[キエフ・ルーシ]]を攻略した同年、今度は西の神聖ローマ帝国領内に侵攻しバウツェン(ブジシン)の講和 ([[:en:Pokój w Budziszynie/Frieden von Bautzen|en]]) により[[マイセン]](ポーランド語でミシニャ)と[[ラウジッツ]](ポーランド語でウジツェ)を獲得、その結果[[中欧]]に広大な新領土を確保した。その間、[[1015年]]には、若い友であり、また同時に妹の息子すなわち甥でもあったデンマーク王クヌーズ2世の[[イングランド王国|イングランド]]遠征の援助をするため、自らの軍の一部を貸し出し、[[北海帝国]]の建設を援助した。[[1020年]]には[[クラクフ]]のヴァヴェル大聖堂の着工が開始されたとされる。
 
[[1025年]]、ボレスワフ1世の死の直前に[[教皇|ローマ教皇]][[ヨハネス19世 (ローマ教皇)|ヨハネス19世]]によってポーランド公国は王国として認知されて'''[[ポーランド王国]]'''となり、国境を確定した。王国領は[[西ポモージェ県|西ポモージェ地方]]を除く現在のポーランド、[[チェコ]]の[[モラヴィア]]地方、[[スロヴァキア]]のほぼ全域、[[オーストリア]]の一部、[[ハンガリー]]の一部、ドイツの[[ラウジッツ]]地方、[[ウクライナ]]の「[[ルーシ]]」地方となる。ボレスワフ1世が治めた属領も含めて全てを合わせると西ポモージェ地方も含めた現在のポーランドのほぼ全域、チェコのほぼ全域、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ウクライナ西部の赤ルーシ地方、[[ベラルーシ]](白ルーシ)の[[ブレスト (ベラルーシ)|ブレスト]]地方、ドイツの[[ラウジッツ]]地方と[[マイセン]]地方となる。
 
だが、ポーランドが王国と認知されて間もなくボレスワフ1世が没したため、最初の[[戴冠式]]を受けたのは息子の[[ミェシュコ2世]]であった。しかし王国内の各地の諸侯は王権のこれ以上の拡大に危惧を抱いた。[[1034年]]、ミェシュコ2世は謎の死を遂げた。その後数年間は政治的な混乱の時代が続いた。
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[[ファイル:Sigismundus II Augustus of Poland.PNG|thumb|right|200px|名君ジグムント2世アウグスト]][[ファイル:Grottger Escape of Henry of Valois.jpg|thumb|200px|国王ヘンリク・ヴァレジの逐電<br>ワルシャワ国立博物館蔵。]]
[[ファイル:Kober_Stephen_Bathory.jpg|thumb|200px|名君ステファン・バートリ]]
[[1543年]]、[[トルン]]出身で[[クラクフ大学]]卒業生のミコワイ・コペルニク([[ラテン語]]名[[ニコラウス・コペルニクス]])は著書『[[天球の回転について]] (De revoltionibus orbium coelestium)』を出版、[[地動説]]を提唱した。彼は父親がクラクフ公国出身のポーランド人で銅の取引業を営み、母親はドイツ人。母の実家のあるトルンで生まれ、父母を早く亡くした後は母方の叔父で[[ヴァルミア]]司教のルーカス・ヴァッツェンローデ(前の段落参照)に育てられた。なお、[[クラクフ大学]]におけるコペルニクスの恩師である人気教授[[アルベルト・ブルゼフスキ]]は[[月]][[軌道]]計算で世界的に名を挙げ、月が[[楕円軌道]]を描いていること、そして常に同じ面を[[地球]]に向けていることを指摘している。
 
[[1569年]]、国王[[ジグムント2世|ジグムント2世アウグスト]]の幅広い尽力により、ポーランドはリトアニアを併合([[ルブリン合同]])してポーランド王を統一君主とする[[同君連合|物的同君連合]]で制限つきながらも[[議会制民主主義]]を採る「'''[[ポーランド=リトアニア共和国]]'''」(第1共和国)となり、欧州の広大な国の1つとして君臨した。
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[[1592年]]、ポーランド=リトアニア共和国は[[スウェーデン|スウェーデン王国]]と[[人的同君連合|同君連合]]となった。時の国王[[ジグムント3世]](スウェーデン国王としての名はジギスムント)はスウェーデン生まれであるが、母がヤギェウォ家のポーランド人だったこともあって若いときからポーランドに住み、ポーランドの教育を受けていた。彼は、軍隊のような高い規律意識を持つ組織行動によって全世界における[[対抗宗教改革]]の尖峰となっていた[[イエズス会]]によって教育され、歴代の王のうちで最も熱狂的な[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の闘士となった。戴冠した当初は当時の[[首都]]であった[[クラクフ]]に居を構えていたが、[[1596年]]には将来の[[スカンジナヴィア|スカンジナヴィア諸国]]、[[バルト諸国|バルト海沿岸地域]]、[[ルーシ|ルーシ諸国]]、といったヨーロッパ北方全域のカトリック化を念頭に置いた最前線基地として[[ワルシャワ]]に[[遷都]]した。以後現在までワルシャワがポーランドの首都となる。彼は常にイエズス会の代表者的な立場にあった。彼が同時に王位に就いていたスウェーデンでは、彼の留守中に叔父で[[摂政]]を務めていた[[プロテスタント]]教徒の[[カール9世 (スウェーデン王)|カールの反乱]]が起き、ジグムント3世は反乱鎮圧とスウェーデンのカトリック化を目指してスウェーデンに軍を進めたが鎮圧に失敗、[[1599年]]にスウェーデン王位をカールに[[簒奪]]され、ポーランド=スウェーデン同君連合は解消した。
 
[[1611年]]、ジグムント3世は[[モスクワ大公国]]の自由主義的な大公国貴族([[ボヤーレ]])たちの求めに応じて東方へと侵攻し[[モスクワ|モスクワ市]]を占領した([[ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)|ロシア・ポーランド戦争]])。ジグムント3世が占領中に「[[ロシア皇帝]]位には[[カトリック教会|カトリック教徒]]のポーランド国王あるいはその[[皇太子|王太子]]のみが就く」という布告を出したことから[[正教徒]]であるロシア人との間で宗教的対立を生じ、ロシア保守主義者が一般市民を巻き込んで住民蜂起を起こした。モスクワ市内の占領軍は孤立し、籠城の末に玉砕し大公国にいた残りのポーランド軍は[[1612年]]までに撤退した。後たび重なる戦争([[ポーランド・スウェーデン戦争]]{{要曖昧さ回避|date=2016年3月}}、[[大洪水時代]])によりポーランド=リトアニア連合王国の政府財政は急速に悪化していった。
 
[[1683年]]に[[オスマン帝国]]による[[第二次ウィーン包囲]]を撃退し、全ヨーロッパの英雄となった[[ヤン3世 (ポーランド王)|ヤン3世ソビエスキ]]王は以後、行き過ぎた地方分権による[[無政府状態]]化の阻止を目指し、中央政府の権力を強めるため[[世襲制|世襲王政]]の実現と、王およびセイム(国会)のそれぞれの権限の明確化による[[立憲君主制]]の確立を画策するなど王国再興を目指して奔走したが、志半ばで没した。その後、王国の中央政府の権限は急速に弱まり、[[国庫]]は逼迫し、国力は衰退していった。
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ポーランド政府は主に西側諸国からの借入れを繰り返し、無計画な経済政策と国家の物財バランスに基づいた計画によって配分される体制の計画経済により急激なインフレ急騰をまねき、食料・物資不足が長く続いた。1973-74年のオイルショックも重なり、借入れによる市場拡大や経済成長は短期間で終わる。その国内経済を補う為、更なる借金をして、政府は1980年までに230億ドルの膨大な負債を抱えたのだった。この様な状況により、闇市が盛んになり{{仮リンク|欠乏経済|en|Shortage economy}}を発達させ、市民によるデモ、ストライキ、暴動などが頻繁に起こった<ref name="britannica.com" />。社会退廃は、生物学的環境と心身の健康上で酷い悪化を伴い死亡率は上昇した。PZPRは、高インフレや貧困な生活水準、市民の怒りと不満により再び社会的爆発の勃発を恐れた政権は、自ら統制できないシステムで困惑し力の無さを感じた<ref>Magdalena Błędowska, Maciej Gdula, 4 czerwca 1989. Jak naród nie obalił komuny [4 June 1989. How the Nation Did Not Overthrow the Commies]. 04 June 2014. 4 czerwca 1989. Jak naród nie obalił komuny. krytykapolityczna.pl. Retrieved 28 December 2014.</ref>。
 
[[1981年]]-[[1983年]]、{{仮リンク|ポーランドの戒厳令|en|Martial law in Poland}}の期間に政府は反政府を潰す為に[[戒厳]]を導入、市民の通常の生活は劇的に制限され<ref name="bbc.co.uk">{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6175517.stm|title=Poland marks communist crackdown|date=13 12月 2006|publisher=|accessdate=2016-07-04|via=bbc.co.uk}}</ref>、数千人のジャーナリストや反対勢力活動家は投獄、他100人<ref name="bbc.co.uk" />ほど抹殺された。[[夜間外出禁止令]]、国境封鎖、空港閉鎖、電話回線の遮断、政府による郵便物内容検査などが執行。[[軍法会議|軍裁判所]]は、偽造情報発信者達を逮捕した<ref>http://news.bbc.co.uk/hi/english/static/special_report/1999/09/99/iron_curtain/timelines/poland_81.stm</ref>。
戒厳令後も、市民の[[自由権]]は酷く制限された。軍事政権により価格は引き上げられ、深刻な[[経済危機]]となる。
経済危機は、主な食料・日用品・生活必需品・物資の[[配給制]]となり平均所得は40%下落した<ref>CIAs Historical Review (24 October 1997). "Cold War era analysis" (PDF file, direct download 12.2 MB). Soviet East European Military Relations in Historical Perspective Sources and Reassessments (The Historical Collections Division (HCD) of the Office of Information Management Services) 1 (1): 18 of 44. Retrieved 26 May 2014.配給制と長蛇の列は日常化 Karolina Szamańska (2008). "Sklepy w czasach PRL" (PDF file, direct download). Portal Naukowy Wiedza i Edukacja. pp. 13, 22 23 / 25. Retrieved 15 October 2014.</ref>。西洋の娯楽品の入手は非常に厳しかったが、それも一層困難化した<ref>Neier, Aryeh (2003). Taking Liberties: Four Decades in the Struggle for Rights. Public Affairs. pp. p. 251. ISBN 1-891620-82-7.</ref>。
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一方で大きく議席数が変化することが少ないと言われる[[ドント方式]]の[[比例代表制]]の選挙にもかかわらず、それまでの政権運営に失望した有権者によって「[[法と正義]]」は大幅に議席を失ってしまった。また、連立政権に参加すると急速に有権者の支持を失っていった「[[自衛 (ポーランド)|自衛]]」と「[[ポーランド家族同盟]]」といった[[国民保守主義]]・[[大衆主義]]的な小政党は、この2007年選挙で議会における全ての議席を喪失した。
[[ファイル:Bronisław_Komorowski_official_photo.jpg|thumb|right|150px|[[ブロニスワフ・コモロフスキ]]第三共和政第5代大統領。]]
この選挙の結果、ポーランド議会([[ポーランド共和国下院|セイム]])の会派は議席の多い順に、
#都市型[[中道右派]]政党の「[[市民プラットフォーム]]」(209議席)
#[[キリスト教民主主義]]の[[保守主義]]政党の「[[法と正義]]」(166)
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[[ファイル:Szczecin town hall.jpg|right|thumb|[[シュチェチン]]]]
{|class="wikitable"
!width="30px"| !!都市!!県!!人口
|-
!width style="width:30px;"| !!都市!!県!!人口
|align="center"|'''1'''
|-
|align="center"|'''[[ワルシャワ]]'''
|align style="text-align:center;"|[[マゾフシェ県]]'''1'''
|align style="text-align:center;"|'''[[ワルシャワ]]'''
| style="text-align:center;"|[[マゾフシェ県]]
|align="right"|1,710,055
|-
|align style="text-align:center;"|'''2'''
|align style="text-align:center;"|'''[[クラクフ]]'''
|align style="text-align:center;"|[[マウォポルスカ県]]
|align="right"|754,624
|-
|align style="text-align:center;"|'''3'''
|align style="text-align:center;"|'''[[ウッチ]]'''
|align style="text-align:center;"|[[ウッチ県]]
|align="right"|747,152
|-
|align style="text-align:center;"|'''4'''
|align style="text-align:center;"|'''[[ヴロツワフ]]'''
|align style="text-align:center;"|[[ドルヌィ・シロンスク県]]
|align="right"|633,000
|-
|align style="text-align:center;"|'''5'''
|align style="text-align:center;"|'''[[ポズナン]]'''
|align style="text-align:center;"|[[ヴィエルコポルスカ県]]
|align="right"|556,022
|}
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[[ポーランド#若者の国|若年人口の多さ]]に支えられて、近年は毎年4〜6%前後の高成長を見せていたが、世界的な[[金融危機]]の余波を受けたため、[[2009年]]の成長率は、[[欧州委員会]] (EC) の予測では−1.4%、[[国際通貨基金]] (IMF) の予測では−0.7%、[[欧州復興開発銀行]] (EBRD) の予測では0%、[[ロイター通信]]調査のポーランド国内外の民間[[金融機関]]の平均的な予測では+0.8%、ポーランド財務省の予測では+1%前後とされていた。
 
ヨーロッパ域内各国については軒並み大幅なマイナス成長が見込まれているが、GDPに対する対外債務残高や短期対外債務残高、金融機関の不良債権、個人の外貨建てローン残高が少なく(家計向けローンに占める外貨建のシェアは約40%、家計向け外貨建てローンは名目GDPの15%未満[<ref>http://www3.keizaireport.com/jump.php?RID=90232&key=959]</ref>)、国内人口が大きいため輸出依存度が比較的低く国内需要が大きいという特徴があるポーランドは、通貨ズウォティの急落によって輸出競争力も回復してこの[[景気後退]]をうまく切り抜けると予想されており、ヨーロッパの国々のうちでは最も高い数値の成長率予測をあらゆる調査で得ている国の一つであった。
 
=== 2009年の結果 ===
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[[2004年]]の[[ヨーロッパ連合|EU]]加盟後、ポーランドはEU内でも西欧諸国より低い賃金水準を持つことから、他の中東欧国同様にEU内の「工場」、そして。さらに、現在ではその高い教育水準を生かして研究開発施設をポーランドに設けようとする企業もあるようである。{{要出典||date=2015年4月}}
 
また、EU加盟後、さらにポーランドから多くの労働者が主にEUの先進諸国に出稼ぎに行っている。他のEUの中東欧国同様、主に単純労働者としての雇用が先行している。一部では[[ホワイトカラー]]としての雇用もみられ、財を成すものも現れた。これまで本国経済の堅調に支えられてポーランドへ帰国する者が徐々に増加していたが、昨今の世界的な金融危機の余波で国内外の経済情勢が激変しているため、ポーランド本国でも就職の機会が少ないのではないか、職を得ても収入が低いのではないか、あるいはポーランド国内であっても自分の出身地とは離れた地方でないと[[求人]]していないのではないか、と考えて帰国をためらう動きも出てきた[<ref>http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/8032788.stm]</ref>。しかし、ポーランド政府は国内産業の長期的な発展を確実にするため道路や通信などといった[[インフラ]]の整備を急ピッチで進めているため[<ref>http://www.targikielce.pl/index.html?k=autostrada_en&s=index]</ref>、外国へ出ている出稼ぎのうち未熟練労働者の祖国へのUターンを積極的に奨励している。ポーランドにおけるインフラ整備や教育など経済発展の基礎作り事業は、規模が巨大であるにもかかわらず資金リスクがないのが特徴である。これは政府や民間からの資金調達に加えて、EUからインフラ整備や教育などポーランド事業を支援するために膨大な補助金(EU構造ファンド、英:EU structural funds)が下りているからである。政府は2010年度より[[緊縮財政]]を行っているが、これは主に[[国営企業]]の[[民営化]]による[[新規株式公開]] (IPO) で多くを賄うことになっており、歳出規模を削減するというわけではない。また、インフラ整備プロジェクトは主にEUなどから資金が確定して拠出されている。これまで国内で9万のプロジェクトに86億ユーロの支援が行われ、13000もの一般企業、数千キロの道路建設、鉄道路線や各地の主要駅の改修や建て替え、無数の歴史的建造物や遺跡の整備といった事業がEUから潤沢な資金援助を受けている。また、61万人のポーランド人学生、260万人の一般のポーランド人がEU資金の恩恵を受けている。[[2007年]]から[[2013年]]にかけての間でポーランドがEUから補助金を受け取る事業の総数は、ドイツに次いでヨーロッパ第2位である[<ref>http://www.polishmarket.com.pl/document/:20739?p=%2FMONITOR+GOSPODARCZY%2F]</ref>。このほかにEUからは農業補助金や行政補助金などがポーランドへ渡されている。ポーランド政府が、「ポーランドへ帰ろう!」キャンペーンを張って国外にいるポーランド人の帰国を熱心に促しているのは、これらの大事業のために膨大な人手が要るためである[<ref>http://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/poland-launches-campaign-to-lure-back-migrant-workers-814747.html]</ref>
 
=== 評価順位 ===
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[[File:Pesa Dart.JPG|thumb|left|PESA(ペサ)社製ED-161型<br>[[インターシティー]]用の大型旅客電車]]
[[ファイル:Christmas tree 2008 (1).JPG|thumb|クリスマスツリーの飾り物の一つ「ボンプカ(英語:ボーブル)」]]
EU内の「工場」として、非常に多岐にわたる[[第二次産業]]が行われている。特に[[パーソナルコンピュータ]]や[[テレビ]]などの[[情報家電]]の生産は盛んで、ヨーロッパのテレビ生産の3割をポーランドが占めている。[[乗用車]]、[[貨物自動車|トラック]]、[[バス (交通機関)|バス]]、[[路面電車]]、[[鉄道車両]]などの生産も盛んで、[[ソラリス (バス)|ソラリス]]、[[:en:PESA SA|PESA]]、[[:en:Newag|Newag]]などといったポーランド地場企業が積極的に外国へ進出している。
 
小規模の手工業においては、[[琥珀]]製品や[[クリスマスツリー]]のガラスの飾り物<ref>{{cite web|url=http://www.polamjournal.com/Library/Holidays/xmasindex/xmas-ornaments/xmas-ornaments.html|title=Polish Christmas Ornaments|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>の生産は世界一で、日本もこれらの製品を多量に輸入している。
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このすでに低い犯罪被害率でさえも年々さらに急速に低下しており(2004年から2010年にかけての7年間で25%の減少)、ポーランドの警察への国民の信頼度は非常に高い<ref>http://www.wbj.pl/article-52845-polands-overall-crime-rate-falls.html?typ=ise</ref>。犯罪被害率は2013年から2014年にかけての1年間でもマイナス14%と劇的な低下が見られ、特に暴行、器物損壊、強盗はいずれも1年間でマイナス約20%の大幅な低下を続けている<ref>https://www.osac.gov/pages/ContentReportDetails.aspx?cid=17806</ref>。
 
ポーランド人にはヨーロッパ人のうち犯罪被害に遭うのを最も恐れる用心深い気質があるとされており<ref>[http://www.europeansafetyobservatory.eu/downloads/EUICS_The%20Burden%20of%20Crime%20in%20the%20EU.pdf J. van Dijk, R. Manchin, J. van Kesteren, S. Nevala, G. Hideg The Burden of Crime in the EU Research Report: A Comparative Analysis of the European Crime and Safety Survey (EU ICS) 2005]</ref>、ポーランドの刑法では他人を大声で罵ったり侮蔑的な言葉を投げかけたときは暴行罪が成立する<ref>{{cite web|url=http://www.legislationline.org/documents/section/criminal-codes/country/10|title=Criminal codes - Legislationline|publisher=|accessdate=2016-07-04}}</ref>。
 
ヨーロッパ人の間に定着した[[偏見]]や[[デマゴギー|デマ]]の類として、「ポーランドでは自動車の盗難が多い」と言われるが、実際のところポーランドの自動車の盗難率は[[イギリス]]、[[デンマーク]]、[[アイルランド]]、[[スペイン]]、[[ポルトガル]]、[[オランダ]]、[[アイスランド]]、[[イタリア]]、[[ノルウェー]]などといった国々より低い<ref name="auto3" />。
{{-}}
 
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[[File:Polandpop.svg|thumb|right|ポーランドの[[人口ピラミッド]]]]
[[ファイル:Polish_teenagers.jpg|thumb|ポーランドの街は子供が多い]]
[[経済協力開発機構]] (OCED) 加盟国に共通する問題としてポーランドにも[[少子化]]の傾向がある。その反面、'''若者が多い'''。人口の50%が35歳以下、35%が25歳以下、20%が15歳以下である。また学生全体の87%が外国語を習得している[<ref>http://tokyo.trade.gov.pl/ja/download/file/f,711]</ref>。[[高等教育]]にも熱心な国民性で、大学進学率は約70%にも上り[<ref>http://www.economist.com/daily/chartgallery/PrinterFriendly.cfm?story_id=9823950]</ref>、19歳から24歳までの人口全体の55%が学生である[<ref>http://www.paiz.gov.pl/index/?id=d71dd235287466052f1630f31bde7932]</ref>
 
=== ポーランド人の苗字 ===
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[[ファイル:Young Gorals of Zywiec 2008 10.jpg|thumb|right|200px|踊るグラル人([[ザコパネ]]の音楽祭で)]]
ポーランド南部の街[[ザコパネ]]を中心とする山岳地方の一帯は「ポトハレ地方」と呼ばれ、ここでは19世紀よりポーランドの芸術の中心地の一つとなった。民俗芸術だけでなく、[[現代音楽]]の作曲家の[[カロル・シマノフスキ]]。シマノフスキはこの地方の住民である「[[グラル人]](「山の人」という意味)」の民俗音楽の収集や、それをモチーフとした作曲も行っている。彼らは弦楽器や[[バグパイプ]]を用いて盛んに音楽を演奏する習慣があり、現代では[[バイオリン]]や[[チェロ]]を多用する。また彼らはリディアンモードの音階を用い、歌うときにはこれに良く合う独特の歌唱法であるリディゾヴァニェを使う。ダンス音楽のクシェサニィ (krzesany) は早い動きを必要とするもので、また「山賊踊り」という意味のズブイニツキ (zbójnicki) はこの地方独特のダンスである。
{| style="border:1px solid darkgraydarkgrey; background:#EEEEEEeee; float:left;"
|{{Audio|A Maiden's Prayer.mid|"乙女の祈り"}},<br />[[Musical Instrument Digital Interface|MIDI]], 3:05 minutes, 13 [[キロバイト|KB]]
|}
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ポーランド国内の都市の中心部は[[中世]]の街並みが保存維持されているが、外縁部の風景に共通するのは旧共産圏によく見られる四角い灰色のアパート群が多い。これは旧体制時代に建設されたもの。戦後、人口増加の対策として間に合わせに作られたものである。こぢんまりして、各戸の多くが前面と後面の両方に窓がある、欧州の寒い地方によくある防寒のため二重窓であったり、[[セントラルヒーティング]]システムが付いている。物資不足の共産主義を反映し、壁が薄い建物もあり、近代的ではなく、使い勝手はあまり機能的ではない。近くには何軒かの店か酒屋・大衆食堂があったり、バスやトラムの停留所・公園・カトリック教会があるように設計されている。しかし一方、そういった近代アパートの存在がポーランドのよき文化的伝統に対する脅威となっているとの社会学的非難がある。地区の[[カトリック教会]]がある程度人々を結び付けている。
 
首都[[ワルシャワ]]に関しては、今も共産圏時代の灰色のビルが中心街に数多く残っている。[[高度成長]]を背景に、一部では複数の不動産開発業者がビジネス街に富裕層向け[[マンション]]・[[オフィス]]・[[ホテル]]複合施設を建設することになっており、今後数年の間に多数の[[高層ビル]]が新たに出現することになっている[<ref>http://www.warsawvoice.pl/view/16781]</ref>
 
=== 世界遺産 ===
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=== 祝祭日・年間行事 ===
{|class="wikitable"
|-
!日付
!日本語表記