「エーリヒ・レーダー」の版間の差分
初稿。大戦期のドイツ海軍総司令官。en:Erich Raeder2006年7月5日03:18版およびde:Erich Raeder2006年7月10日01:52版を翻訳、加筆。 |
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2006年7月28日 (金) 12:30時点における版
エーリヒ・ヨハン・アルベルト・レーダー(Erich Johann Albert Raeder、1876年4月24日 - 1960年11月6日)は、ドイツの海軍軍人。最終階級は海軍元帥(Großadmiral)。騎士鉄十字章授賞。
第一次世界大戦では帝国海軍将校としてユトランド沖海戦など主要な作戦に参加、戦間期には海軍の建て直しに当たり、第二次世界大戦では海軍総司令官としてドイツ海軍全体を指揮した。
生涯
初期の軍歴
1876年4月24日、レーダーはハンブルクのヴァンズベックで公立学校の校長の息子に生まれた。1894年4月、ドイツ帝国海軍に入隊。練習船ストッシュ(Stosch)、次いで練習船グナイゼナウ(Gneisenau)で基礎訓練を積んだ後、海軍士官学校に入校した。1897年10月25日、レーダーは士官学校を卒業し、海軍士官候補生(Unterleutnant zur See)に任官、以降は海上で勤務した。1899年1月1日、海軍少尉(Leutnant zur See)に昇進。1900年4月9日、海軍中尉(Oberleutnant zur See)に昇進。1903年10月1日、レーダーは海軍アカデミーに入校し、上級将校としての教育を受けた。1905年3月21日、海軍大尉(Kapitänleutnant)に昇進。
1906年4月1日、レーダーは海軍本部に異動し、報道官を務めた。1908年から海上勤務に戻り、装甲巡洋艦ヨルク(York)の航海長に就任した。1910年9月15日、皇帝ヴィルヘルム2世の御座船であるホーエンツォレルン(Hohenzollern)の航海長へ異動となった。1911年4月15日、海軍少佐(Korvettenkapitän)に昇進。1912年10月1日、レーダーは偵察艦隊司令官の参謀に就任した。
第一次世界大戦
1914年の第一次世界大戦の開戦を、レーダーは偵察艦隊参謀のままで迎えた。当時の偵察艦隊司令官はフランツ・フォン・ヒッパーであった。レーダーはヒッパーの指揮下で、1915年1月24日のドッガー・バンク海戦、1916年5月31日のユトランド沖海戦など、主要な作戦に参加した。1917年4月26日、海軍中佐(Fregattenkapitän)に昇進。1917年6月14日、偵察艦隊参謀長に就任した。
1918年1月17日、レーダーは軽巡洋艦ケルン(Cöln)の艦長に就任した。しかし、すでにドイツ海軍は壊滅状態にあったため、戦闘任務に加わることはなかった。1918年10月、レーダーは海軍本部に異動し、終戦へ向けた事務処理に携わることとなった。1918年11月、ドイツ革命が勃発し、ヴァイマル共和国が成立、第一次世界大戦は終結した。
戦間期
戦後もレーダーは海軍に残り、海軍本部中央部長として軍の再建に当たることとなった。1919年11月29日、海軍大佐(Kapitän zur See)に昇進。1920年3月、ヴァイマル政府転覆を目的としたカップ一揆が勃発した。陸軍将兵が一揆の中心であったが、海軍の一部将兵も参加していたため、鎮圧後に海軍へも追求が及んだ。アドルフ・フォン・トロータ海軍中将を始めとして多数の将校が逮捕された。レーダーは逮捕こそ免れたが、トロータとの関係が疑われ、1920年6月1日に戦史編纂課長へ左遷された。レーダーはこの機会に古今の戦史や政治経済を学んだ。1922年には研究の成果として、自身も関わった第一次世界大戦における巡洋艦の戦史「Der Krieg zur See 1914 - 1918」を出版した。
1922年6月20日、レーダーは海軍の教育監査官へ就任した。1922年8月1日、海軍少将(Konteradmiral)に昇進。1924年9月19日、北海軽艦隊司令官に就任した。1925年9月10日、海軍中将(Vizeadmiral)に昇進。1925年10月1日、バルト海司令官に就任。1928年10月1日、海軍大将(Admiral)への昇進と同時にヴァイマル共和国海軍総司令官に就任した。実験を握ったレーダーは海軍の再建を推進していった。ヴェルサイユ条約によってドイツ海軍の軍備は大きく制限されていたが、ポケット戦艦の開発など、戦力差を埋めるよう努力した。
1933年1月20日、アドルフ・ヒトラーが首相に就任した。ヒトラーは当初から再軍備を考えていたため、レーダーに条約破棄を前提として以降の建艦計画を立てるよう命じた。以降はその線に沿って再建が進められた。1935年3月16日、ヒトラーはヴェルサイユ条約の破棄と再軍備を宣言した(ドイツ再軍備宣言)。これによってレーダーは新生ドイツ海軍総司令官となった。1936年4月20日、レーダーは海軍元帥(Generaladmiral=提督)に昇進した。これはレーダーの60歳の誕生日を前にヒトラーが送ったプレゼントだった。
1938年、レーダーは今後6年間で、イギリス海上部隊に対抗できる艦隊を創設するというZ計画を提示した。計画の概要は以下のとおりである。
- 戦艦10隻 - H級戦艦(55,000t)6隻。ビスマルク級戦艦(42,000t)2隻が着工済み。シャルンホルスト級戦艦(35,000t)2隻が建造済み。
- 装甲艦15隻 - 新型装甲艦(20,000t)12隻。ドイッチュラント級装甲艦(10,000t)3隻が建造済み。
- 航空母艦8隻 - グラーフ・ツェッペリン(20,000t)のみ着工済み。
- 重巡洋艦5隻 - アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦(10,000t)が全て着工済み。
- 軽巡洋艦24隻 - M級軽巡洋艦(8,000t)18隻。エムデン級軽巡洋艦(6,000t)1隻、K級軽巡洋艦(7,200t)1隻、ライプツィヒ級軽巡洋艦(8,000t)の計6隻が建造済み
- 偵察巡洋艦36隻 - 5,000t級。
- 駆逐艦及び水雷艇148隻
- Uボート249隻
しかし、この計画はUボートによる通商破壊を重視し、決戦型艦隊の不要を唱える潜水艦隊司令官カール・デーニッツらの批判にさらされた。実際、当時の海軍予算から見てもZ計画は無理のあるものであったが、開戦が数年先と予測されていたことあり、計画はひとまず進められた。しかし、翌1939年のポーランド侵攻の開始によってZ計画は中絶されることとなった。ドイツ海軍は連合軍に対して海上戦力で劣勢のまま開戦を迎え、潜水艦による通商破壊戦を主軸に据えることとなった。
1939年4月1日、レーダーは海軍元帥(Großadmiral=大提督)に昇進した。これはドイツ海軍最高の階級であり、ナチス時代にはレーダーとデーニッツが任じられたのみである。
第二次世界大戦
1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発。レーダーは引き続き海軍総司令官として戦争指導に当たることとなった。ポーランド侵攻では海軍の出番はなかったが、翌1940年4月の北欧侵攻では重要な役割を担うこととなった。海軍は陸軍部隊をノルウェーへ輸送し、上陸とそれに続く内陸部侵攻を海上より支援して、作戦の成功に貢献した。しかし、イギリス海軍の攻撃により、ドイツ艦隊は多大な損害を被ることとなった。
1940年5月、ドイツはフランス侵攻を開始し、6月までにフランス全域を制圧下に置いた。これによってヨーロッパにおけるドイツの主敵はイギリスのみとなった。ドイツはイギリス本土上陸作戦「アシカ作戦」を計画した。しかし、作戦の前提となる制空権の獲得は、バトル・オブ・ブリテンの敗北により失われ、またノルウェー侵攻で受けた海軍の損害も回復されず、アシカ作戦は実行することが出来なかった。
開戦以降のドイツ海軍の戦略は、通商破壊と現存艦隊主義を主軸に置いていた。大西洋でのUボートの活躍はイギリスの消耗を誘い、北海におけるティルピッツを中心とした艦隊の存在は、連合軍による対ソ援助船団の航行を困難なものとした。しかしながら、ドイツ海軍全体の劣勢は疑いようもなく、積極攻勢を仕掛けることは出来なかった。1942年になると、連合軍の対潜戦術も向上し、通商破壊も効果をあげることが出来なくなった。戦果の上げられない海軍に対して、ヒトラーは不満を抱くようになった。1942年12月31日、対ソ援助船団を攻撃するレーゲンボーゲン作戦の失敗は、ヒトラーの海軍への不信を決定的なものとした。ヒトラーはレーダーを呼び出し、役立たずの海上部隊を解体せよと命じた。この命令に絶望したレーダーは、1943年1月30日、海軍総司令官を辞任した。後任の総司令官にはデーニッツが選ばれた。レーダーは海軍総監査官という一種の名誉職に付き、終戦まで同職を務めた。
戦後
ドイツ降伏後の1945年6月23日、レーダーは主要な戦犯の一人として逮捕された。1945年10月20日、戦犯を裁くニュルンベルク裁判が開廷された。裁判は、1:侵略戦争などの共謀への参加、2:侵略戦争などの計画及び実行、3:戦争犯罪、4:非人道的犯罪の4項目ごとに起訴が行われることとなっていた。レーダーへは第4項をのぞく全てで起訴された。1946年10月、レーダーは全ての項目で有罪とされ、終身刑が宣告された。70歳という高齢を理由に減刑を求めたが、これは却下された。レーダーはシュパンダウ刑務所に収監された。
1955年9月26日、レーダーは健康悪化を理由に釈放された。キールに居を構えたレーダーは回想録「Mein Leben」を書き上げた。1960年11月6日、レーダーは84歳で亡くなった。葬儀はドイツ連邦海軍が主催して行われ、弔辞はデーニッツが読み上げた。遺体はキールのノルトフリートホーフへ埋葬された。
著作
- 「Der Krieg zur See 1914 - 1918」1922年 - 日本未訳
- 「Mein Leben」19556年 - 日本未訳
外部リンク
- The Reichsmarine 1919-1935 by Jason Pipes
- Kriegsmarine - The Navy 1935-1945 by Jason Pipes
- Admiral Erich Raeder: True to his Profession by Michael Harris
- Biography of Grosadmiral Raeder by Michael Miller