「遣唐使」の版間の差分

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「海事史学者の石井謙治」南路説を誤って消したため、復活させる
海外への渡海制限は無い研究、追記
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== 遣唐使の停止後の日本の外交・貿易 ==
遣唐使の停止後、日本の朝廷は国家の許可なく異国に渡ることを禁じる「[[渡海制]]」と唐や[[宋 (王朝)|宋]]などの商船の来航制限(前回の安置(滞在許可)から次回の安置まで10余年の間隔を空ける<ref name=watanabe2009a>渡邊誠「年紀制と中国海商」(『[[#平安時代貿易管理制度史の研究|平安時代貿易管理制度史の研究]]』(原論文:『歴史学研究』856号、2006年)) {{要ページ番号|date=2016-04-29}}</ref><ref name=watanabe2009b>渡邊誠「年紀制の消長と唐人来着定」(『[[#平安時代貿易管理制度史の研究|平安時代貿易管理制度史の研究]]』(原論文:『ヒストリア』217号、2006年)) {{要ページ番号|date=2016-04-29}}</ref>)を定めた「[[年紀制]]」が採用されたとされている。ただし、「渡海制」自体は公使(公的な使者、日本で言えば遣唐使・[[遣新羅使]]・[[遣渤海使]]など)以外の往来を禁じた各国[[律令法]]の規定<ref group="注釈">ただし、その根拠としては[[衛禁律]]に求める説と[[賊盗律]]の[[謀叛]]に相当するとみる説がある{{要出典|date=2016-04-29}}。</ref>の延長に過ぎず、9世紀後半から唐や新羅ではこの規制が緩んで国家統制下で民間貿易が認められたのに対して、島国であった日本だけが引き続きこの規定を維持する地理的条件を備えていた。同様に「年紀制」もこの仕組を維持するための政策であったと言える<ref name=enomoto1991>榎本淳一「律令国家の対外方針と〈渡海制〉」(『[[#唐王朝と古代日本|唐王朝と古代日本]]』(原論文:1991年)) {{要ページ番号|date=2016-04-29}}</ref>。だが、海外への渡海制限は無いという研究もある{{sfn|東野治之|2007|p=178|ps=、資料は、榎本淳一『「小右記」にみる渡海制』}}
 
だが、遣唐使の停止以後も、貴族や寺院を中心とした「[[唐物]]」の流行など中国の文物への憧れや需要は変わらなかった。そのため、[[10世紀]]後半に入ると朝廷が様々な口実を設けて宋や高麗の商船の入港を認める「特例」が見られ、一方で法の規制をかいくぐって宋や[[高麗]]に密航する日本船も登場するようになった。更に「年紀制」の規制では唐宋商人の日本での滞在期間が考慮されず、かつ「年紀制」違反によって[[廻却]](帰国)処分を受けても取引自体は禁じられなかった<ref group="注釈">「年紀制」違反による処分は、滞在中の[[需要と供給#歴史用語としての「供給」|供給(滞在費用)]]支給拒否と朝廷との取引停止の効果しかなく、個々の貴族や寺社・商人との取引までを禁じたものではなかった。このため、「年紀制」制定意図を朝廷による唐物交易と財政支出の抑制とみる考えもある(渡邊誠「年紀制の消長と唐人来着定」 {{要ページ番号|date=2016-04-29}})。</ref>ため、唐宋商人は[[大宰府]]に近い[[博多]]に「[[唐坊]]」と呼ばれる居留地を形成して貿易を行った<ref group="注釈">唐宋商人の中には来航後、長期にわたって博多の唐坊を拠点に貿易・商業活動を行い、次の年紀到来直前に帰国して「年紀法」に違反しない形で再度来航する者もいた{{要出典|date=2016-04-29}}。</ref>。とは言え、[[摂関期]]・[[院政期]]でも「渡海制」「年期制」違反で処分された事例も存在し、こうした規制は曲がりなりにも[[鳥羽天皇|鳥羽]][[院政]]の時代([[12世紀]]中期)までは維持されたとみられている。鳥羽院政期に入ると、[[平忠盛]]のように大宰府による規制を排除して宋の商船と取引を行うなど、貿易の国家統制が解体されて民間が主導する[[日宋貿易]]が本格化することになる<ref name=enomoto1991/><ref name=watanabe2009b/>。