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{{Portal クラシック音楽}}
'''ジョゼフ=モーリス(モリス)・ラヴェル'''('''Joseph-Maurice Ravel'''<small> [http://ja.forvo.com/word/maurice_ravel#fr 発音例]</small>, [[1875年]][[3月7日]] - [[1937年]][[12月28日]])は『[[スペイン狂詩曲 (ラヴェル)|スペイン狂詩曲]]』やバレエ音楽『[[ダフニスとクロエ (ラヴェル)|ダフニスとクロエ]]』
== 生涯 ==
[[1875年]]に[[フランス]]南西部、[[スペイン]]にほど近い[[バスク地方]]の[[シブール]]で生まれる。生家は、オランダの建築家により17世紀に建てられたもので、[[アムステルダム]]の運河に面している建物のように完全にオランダ様式を呈して、[[サン=ジャン=ド=リュズ]]の港に面して建っている。母マリーは[[バスク人]]
音楽好きの父の影響で、6歳でピアノを始め、12歳で作曲の基礎を学んだ。両親はラヴェルが音楽の道へ進むことを激励し、[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]へ送り出した。音楽院に在籍した14年の間、[[ガブリエル・フォーレ]]や[[エミール・ペサール]]らの下で学んだラヴェルは、多くの若く革新的な芸術家と行動を共にし、影響と薫陶を受ける<ref>1900年頃には、ラヴェルらを中心とした音楽家や詩人たちによる芸術グループ、「[[アパッシュ (芸術サークル)|アパッシュ]]」が結成された。</ref>。
[[1898年]][[3月5日]]の[[国民音楽協会]]第266回演奏会において作曲家として公式デビューを果たしたラヴェルは<ref>[[マルト・ドロン]]と[[リカルド・ビニェス]]のピアノにより『耳で聴く風景』が演奏された。</ref>
[[1907年]]、歌曲集『博物誌』の初演後、[[エドゥアール・ラロ]]の息子ピエール・ラロはこの作品を[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]の盗作として非難し、論争が起こった。しかし、『[[スペイン狂詩曲 (ラヴェル)|スペイン狂詩曲]]』が高い評価で受け入れられると、
[[第一次世界大戦]]中、ラヴェルはパイロットとして志願したが、年齢とその虚弱体質から
大戦中の[[1917年]][[1月15日]]、最愛の母親が76歳でこの世を去る。生涯最大の悲しみに直面したラヴェルの創作意欲は極度に衰え、[[1914年]]にある程度作曲されていた組曲『[[クープランの墓]]』<ref>世界大戦で亡くなった友人たちの思い出に捧げられた。</ref>を完成(1917年11月)させた以外は、3年間にわたって実質的な新曲を生み出せず、[[1920年]]の『[[ラ・ヴァルス]]』以降も創作ペースは年1曲程度と極端に落ちてしまった<ref>オレンシュタイン、前掲書、99ページ</ref>。母の死から3年経とうとした[[1919年]]末にラヴェルがイダ・ゴデブスカに宛てた手紙には、「日ごとに絶望が深くなっていく」と、痛切な心情が綴られている<ref>オレンシュタイン、前掲書、100ページ</ref>。
[[1920年]][[1月]]、ラヴェルは[[レジオンドヌール勲章]]叙勲者にノミネートされたが、これを拒否したために物議を醸し、結果的に[[4月]]に公教育大臣と大統領によってラヴェルへの叙勲は撤回された。
[[1920年]]代のフランスでは、[[エリック・サティ]]を盟主とする「[[フランス6人組]]」の登場や、複調
[[1928年]]、ラヴェルは初めてアメリカに渡り、4ヶ月に及ぶ演奏旅行を行った。[[ニューヨーク]]では満員の聴衆の[[スタンディングオベーション]]を受ける一方、ラヴェルは[[黒人霊歌]]や[[ジャズ]]、摩天楼の立ち並ぶ町並みに大きな感銘を受けた。この演奏旅行の成功により、ラヴェル
アメリカからの帰国後、ラヴェルが生涯に残せた楽曲は、『[[ボレロ (ラヴェル)|ボレロ]]』
ラヴェルは[[1927年]]頃から軽度の記憶障害や言語症に悩まされていたが、[[1932年]]、パリで[[タクシー]]に乗っている時、交通事故に遭い、これを機に症状が徐々に進行していった。タクシー事故にあった同年に、最後の楽曲『ドルシネア姫に想いを寄せるドン・キホーテ』の作曲に取り掛かるが、楽譜や署名
[[1933年]][[11月]]、パリで最後のコンサートを行い、代表作『ボレロ』などを指揮するが、この頃には手本がないと自分のサインも満足にできない状態にまで病状が悪化して
病床にあって彼はオペラ『ジャンヌ・ダルク』などいくつかの曲の着想を得、それを書き留めようとしたがついに一文字も書き進める事が出来なくなったと伝えられる。ある時は友人に泣きながら「私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。それをもっとみんなに聴かせたいのに、もう一文字も曲が書けなくなってしまった」と呟き、また別の友人には『ジャンヌ・ダルク』の構想を語った後、「だがこのオペラを完成させることはできないだろう。僕の頭の中ではもう完成しているし音も聴こえているが、今の僕はそれを書くことができないからね」とも述べ
同時期、ラヴェルは失語症などの権威
晩年を過ごした[[イヴリーヌ県]][[モンフォール=ラモーリー]]にあるラヴェルの最後の家は、現在[[ラヴェル博物館]]([http://www.ville-montfort-l-amaury.fr/6_ravel/musee.htm Musée Maurice Ravel])となっている。浮世絵を含む絵画や玩具のコレクション、作曲に用いられたピアノなどが展示されている。
ラヴェルは一生独身を貫き、弟のエドゥワールも晩婚で子供をもうけなかったためラヴェル家の血筋はエドゥワールの死([[1960年]])をもって
== 作風 ==
母方の血筋である[[スペイン]]への関心は様々な楽曲に見出だされ、『[[ヴァイオリンソナタ (ラヴェル)|ヴァイオリン・ソナタ]]』
ラヴェルは[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]と共に[[印象主義音楽|印象派(印象主義)]]の作曲家に分類されることが多い。しかし、ラヴェルの作品はより強く古典的な曲形式に立脚しており、ドビュッシーとは一線を画すと同時にラヴェル本人も印象派か否かという問題は
ラヴェル自身は[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]及び[[フランソワ・クープラン]]
ラヴェルは
『[[ピアノ協奏曲 (ラヴェル)|ピアノ協奏曲ト長調]]』について、ラヴェルは、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]および[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]の協奏曲がそのモデルとして役立ったと語った。彼は[[1906年]]頃に協奏曲『Zazpiak Bat』(「バスク風のピアノ協奏曲」。直訳だと「7集まって1となる」というバスク人のスローガン)を書くつもり
ラヴェルは、「[[アンドレ・ジェダルジュ]]([[:fr:André Gedalge|André Gedalge]])<ref>ラヴェルのパリ音楽院時代の対位法及び和声学の恩師。</ref>は私の作曲技術の開発において非常に重要な人でした」とコメントしている(ジェダルジュは対位法教程を残した最初期の作曲家でもある)。
== 後世への影響 ==
[[File:Ravel Gershwin Leide-Tedesco002.jpg|thumb|ラヴェルとガーシュウィン(右端)
「作曲家は創作に際して個人と国民意識、つまり民族性の両方を意識する必要がある」と言うのがラヴェルの考え方
彼の曲を得意とするピアニストは[[マルグリット・ロン]]や彼女の弟子の[[サンソン・フランソワ]]などがいるが、特にラヴェル本人から楽曲について細かいアドヴァイスを受ける機会があった[[ヴラド・ペルルミュテール]]は、ラヴェルの意図を忠実に再現した「ラヴェル弾き」と言われる。▼
▲彼の曲を得意とするピアニストは[[マルグリット・ロン]]や彼女の弟子の[[サンソン・フランソワ]]などがいるが、特にラヴェル本人から楽曲について細かいアドヴァイスを受ける機会があった[[ヴラド・ペルルミュテール]]は、ラヴェルの意図を忠実に再現した
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== 代表的な作品 ==
{{main|ラヴェルの楽曲一覧}}
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*:もともとはバスク風協奏曲として計画されていたもの。
*[[左手のためのピアノ協奏曲 (ラヴェル)|左手のためのピアノ協奏曲]](Concerto pour la main gauche)
*:第一次世界大戦で右手を失ったピアニスト、[[パウル・ウィトゲンシュタイン]](哲学者として知られる[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]の兄)の依頼によるもの。[[ジャズ]]の影響が色濃い。
===管弦楽作品===
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*:1幕のオペラ。時計屋の女房に言い寄る男たちをコミカルに扱った歌劇。
*[[子供と魔法]](L'enfant et les sortilèges)
*:
===バレエ音楽===
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===編曲===
*[[展覧会の絵]](Tableaux d'une exposition; [[モデスト・ムソルグスキー|ムソルグスキー]]のピアノ曲を管弦楽編曲)
*[[謝肉祭 (シューマン)|謝肉祭]](1914年に[[ヴァーツラフ・ニジンスキー]]の委嘱により[[ロベルト・シューマン|シューマン]]のピアノ曲を管弦楽編曲
*[[夜想曲 (ドビュッシー)|夜想曲]]([[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]のオーケストラと女声合唱のための曲を2台のピアノのために編曲
*[[牧神の午後への前奏曲]]([[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]のオーケストラ作品を2台のピアノ用に1910年に編曲<ref name="today"></ref>
*サラバンド([[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]のピアノ曲を管弦楽編曲)
*舞曲([[シュタイアーマルク州|スティリー]]風タランテラ)(同上。1922年編曲<ref name="today"></ref>
*華やかなメヌエット([[エマニュエル・シャブリエ|シャブリエ]]のピアノ曲を管弦楽編曲)
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;墓碑
:パリ近郊[[ルヴァロワ]](パリ・[[サン・ラザール駅]]より約15分)の墓地にある。
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== 注釈 ==
<references/>
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==参考文献==
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* ニコルス, R. 1987.
* シュトゥッケンシュミット, H.H.・岩淵達治訳. 1983.
* Orenstein, A. 2003 (1990). A Ravel reader: correspondence, articles, interviews. New York: Dover Publications.
* Orenstein, A. 1991 (1975). Ravel: man and musician. New York: Dover Publications.
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