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サラエヴォに隣接して、ボスニア・ヘルツェゴビナの構成体のひとつである[[スルプスカ共和国]]の首都である[[イストチノ・サラエヴォ]](東サラエヴォ)がある。現在のイストチノ・サラエヴォの市域には、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]前のサラエヴォの市域の一部が含まれている。
 
この地域に人が居住を始めたのは[[先史時代]]にまでさかのぼるものの、現代のサラエヴォにつながる町ができたのは[[15世紀]]の[[オスマン帝国]]の統治下でのことであった<ref>Valerijan, Žujo; Imamović, Mustafa; Ćurovac, Muhamed. Sarajevo.</ref>。[[オーストリア=ハンガリー帝国]]に併合されたのちも[[ボスニア]]の州都と位置付けられたサラエヴォは、近代以降の何度かにわたって国際的な注目を受けることになった。[[1914年]]にはこの地は[[サラエボ事件|オーストリア帝位継承者の暗殺事件]]の現場となり、この事件によって[[第一次世界大戦]]が引き起こされた。[[1984年]]にはサラエヴォは[[サラエボオリンピック|1984年冬季オリンピック]]の会場となり、さらに後の[[ユーゴスラビア紛争|ユーゴスラビア崩壊]]のときには、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]において数年間にわたる[[サラエヴォ包囲|セルビア人勢力による包囲]]を受けた。現在のサラエヴォは紛争後の復興開発が進み、21世紀初頭において紛争前の水準を回復しつつある。サラエヴォは、ボスニア・ヘルツェゴビナの経済・文化活動の拠点となっている<ref>Kelley, Steve. [http://seattletimes.nwsource.com/html/sports/2003174149_kell04.html Rising Sarajevo finds hope again]. [[シアトル・タイムズ|The Seattle Times]]. Retrieved on 19 August 2006.</ref>。サラエヴォは[[ヨーロッパ]]で初めて、そして全世界で2番目に早く終日(朝から夜まで)運行の[[路面電車]]が運行された町である<ref group="*">終日運行の路面電車の世界初は[[アメリカ合衆国]]の[[サンフランシスコ]]であった。 [http://www.amazon.co.uk/Cities-Book-Lonely-Planet-Pictorial/dp/1741047315] Lonely Planet: Best Cities in the World</ref>。
 
== 呼称と表記 ==
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== 人口動態サラエヴォの民 ==
著名な個人については「[[#サラエヴォ出身の人物|サラエヴォ出身の人物]]」節を参照のこと。
[[ファイル:Girl of Sarajevo Bosnia Austro-Hungary.jpg|thumb|220px|[[ボスニア]]の[[民族衣装]]を身に着けた、19世紀末のサラエヴォの若い女性/袋のように膨らんだズボン "[[:en:dimije|dimije]]" を穿いている。[[1890年]]頃と[[1900年]]頃の間にスタジオ撮影された観光カタログ用写真。モノクロ写真の[[ネガフィルム]]から版を起こして多色刷で彩色した{{仮リンク|フォトクローム|en|Photochrom}}の印刷物。]]
=== 人口動態 ===
ボスニア・ヘルツェゴビナにおける公式な[[国勢調査]]は[[1991年]]以降、2008年にいたるまで行われていない。1991年の国勢調査では、サラエヴォ周辺の10の自治体の人口は527,049人を数えた。サラエヴォの都市圏の人口は416,497であった<ref>Population density and urbanization. Retrieved on 5 August 2006.</ref>。サラエヴォを含むボスニア・ヘルツェゴビナでは、戦争によって大規模に人口が流動し、その多くが2008年の時点でいまだに帰還できていない。
 
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[[ポップ・ロック・サラエヴォ派]](Sarajevska škola pop-roka、[[:en:Sarajevo school of pop rock|en]])は[[1961年]]から[[1991年]]まで発展を続けた音楽である。この種類の音楽は、[[インデクシ]]([[:en:Indexi|Indexi]])、[[ビイェロ・ドゥグメ]]([[:en:Bijelo dugme|Bijelo dugme]])などのバンドや、シンガー・ソングライターの[[ケマル・モンテノ]]([[:en:Kemal Monteno|Kemal Monteno]])らによって始められたものである。この音楽は誕生後[[1980年代]]も続き、[[プラヴィ・オルケスタル]]([[:en:Plavi orkestar|Plavi orkestar]])、[[ザブラニェノ・プシェニェ]]([[:en:Zabranjeno pušenje|Zabranjeno pušenje]])、[[ツルヴェナ・ヤブカ]]([[:en:Crvena jabuka|Crvena jabuka]])などが活躍したものの、1992年の紛争勃発によって潰えた。紛争が終わって初めてサラエヴォでライブをしたバンドは、[[アイルランド]]の[[U2]]であった。
 
== 催しもの ==
サラエヴォで行われる主な催し物としては、[[サラエヴォ映画祭]]と[[サラエヴォ・ジャズ・フェスティバル]]([[:en:Sarajevo Jazz Festival|Sarajevo Jazz Festival]])が挙げられる。
 
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* Official results from the book: Ethnic composition of Bosnia-Herzegovina population, by municipalities and settlements, 1991. census, Zavod za statistiku Bosne i Hercegovine - Bilten no.234, Sarajevo 1991.
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 脚注関連文献 ==