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経歴セクション(遣唐使節任命に伴う叙位)
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| 画像 = Fujiwara no Umakai.jpg
| 画像サイズ = 220px
| 画像説明 = 藤原宇合(『前賢故実』より)
| 時代 = [[奈良時代]]
| 生誕 = [[持統天皇]]8年([[694年]])
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| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[正三位]][[参議]]・[[式部省|式部卿]]・[[大宰]]
| 主君 = [[元正天皇]]→[[聖武天皇]]
| 氏族 = [[藤原氏]]([[藤原式家|式家]])
| 父母 = 父:[[藤原不比等]]、母:[[蘇我連子]]娘・[[蘇我娼子|娼子]]
| 兄弟 = [[藤原武智麻呂|武智麻呂]]、[[藤原房前|房前]]、'''宇合'''、[[藤原麻呂|麻呂]]、<br/>[[藤原宮子|宮子]]([[文武天皇]]夫人)<br/>[[藤原長娥子|長娥子]]([[長屋王]]妾)、'''宇合'''、[[藤原麻呂|麻呂]]、<br/>[[光明皇后|光明子]]([[聖武天皇]][[皇后]])<br/>[[藤原多比能|多比能]]([[橘諸兄]]室)、<br/>殿刀自?([[大伴古慈斐]]室)
| 妻 = [[石上麻呂]]娘・国盛、<br/>高橋笠朝臣娘・阿禰娘、<br/>小治田功麿男牛養女、<br/>久米奈保麻呂娘?・[[久米若女|若女]]、<br/>佐伯徳麻呂娘・家主娘
| 子 = [[藤原広嗣|広嗣]]、[[藤原良継|良継]]、[[藤原清成|清成]]、[[藤原綱手|綱手]]、[[藤原田麻呂|田麻呂]]、<br/>[[藤原百川|百川]]、[[藤原蔵下麻呂|蔵下麻呂]]、[[藤原掃子|掃子魚名]] ほか室、<br/>[[藤原巨勢麻呂]]室、掃子
| 特記事項 =
}}
'''藤原 宇合'''(ふじわら の うまかい、[[持統天皇]]8年([[694年]] - [[天平]]9年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]([[737年]][[9月3日]]))は、[[奈良時代]]の[[公卿]]。初名は'''馬養'''。[[右大臣]]・[[藤原不比等]]の三男。[[藤原式家]]の祖。[[官位]]は[[正三位]]・[[参議]]。[[勲等]]は勲二等。
 
== 経歴 ==
[[霊亀]]2年([[716年]])8月に第9次[[遣唐使]]の使節が任命されるが、馬養は遣唐副使に任ぜられ(遣唐押使は[[多治比守]])、まもなく[[正六位|正六位下]]から二階昇進して[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]する。この時の遣唐大使である[[大伴山守]]の[[位階]]も従五位下であり、大使と副使の位階を同じとすることは珍しく、この[[叙位]]に対して父・[[藤原不比等|不比等]]の政治力が働いていたことが想定される<ref>木本[2013: 33]</ref>。霊亀3年([[717年]])6月~7月ごろ頃に入唐し、10月に[[長安]]に到着する。[[養老]]2年([[718年]])10月に遣唐使節一行は[[九州]]に帰着し<ref>『続日本紀』養老2年10月20日条</ref>、翌養老3年([[719年]])正月に復命を果たす<ref>『続日本紀』養老3年正月10日条</ref>。宇合は遣唐副使の功により[[正五位|正五位下]]から正五位上に昇叙された。なお、遣唐使節としての入唐を通じて、'''馬養'''から'''宇合'''に[[改名]]している。
 
同年7月の[[按察使]]設置時に、[[常陸国司|常陸守]]として[[安房国|安房]]・[[上総国|上総]]・[[下総国|下総]]3国の[[按察使]]に任ぜられる。養老4年([[720年]])8月に父の[[右大臣]][[藤原不比等]]が薨じると、翌養老5年([[721年]])正月にその子である[[藤原四兄弟]]はそれぞれ大幅な加叙を受けるが、宇合は四階進んで[[正四位|正四位上]]に叙せられる。
 
[[神亀]]元年([[724年]])3月に海道の[[蝦夷]]が反乱を起こして、陸奥大掾・[[佐伯児屋麻呂]]を殺害する<ref>『続日本紀』神亀元年3月25日条</ref>。そのため、宇合は[[式部省|式部卿]]の官職にあったが、4月に持節大将軍に任命され反乱を鎮圧するために遠征し、11月に帰還<ref>『続日本紀』神亀元年11月29日条</ref>。この功により翌神亀2年([[725年]])正月に[[従三位]]・[[勲等|勲二等]]の[[叙位]]・[[叙勲]]を受け、[[公卿]]に列する。
 
その後も長く式部卿を務める一方で、神亀3年([[726年]])[[造宮省|知造難波宮事]]に任ぜられ、後期[[難波宮]]造営の責任者を兼ねる。神亀6年([[729年]])の[[長屋王の変]]に際しては、[[長屋王]]の謀反に関して密告が行われると、直ちに宇合は[[近衛兵|六衛府]]の兵士を率いて長屋王邸を包囲するなど、軍事面で主要な役割を果たした<ref>『続日本紀』天平元年2月10日条</ref>。なお、変での活躍にも拘わらず、既に[[藤原氏]]から2名([[藤原武智麻呂|武智麻呂]]・[[藤原房前|房前]])の議政官を出していたこともあり、この時点での宇合の[[参議]]昇進は見送られている。
 
[[天平]]3年([[732年]])8月に諸官人の推薦により、6名もの大量の参議抜擢が行われ、宇合は弟[[藤原麻呂|麻呂]]とともに参議に昇進。[[藤原四兄弟]]が全員議政官となり、藤原四子政権が確立された。同年11月に[[畿内]]に惣管、[[五畿七道|諸道]]に[[鎮撫使]]が設置されると、畿内副惣管に任ぜられる(畿内大惣管は[[新田部親王]])。天平4年([[732年]])、地方軍備体制の整備を行うために節度使が置かれると、宇合は[[西海道]][[節度使]]に任ぜられ、九州に赴任する。赴任にあたって宇合が作成した[[漢詩]]が『[[懐風藻]]』にあり<ref>『懐風藻』93</ref>、[[高橋虫麻呂]]の見送る和歌が『[[万葉集]]』に残る。九州では軍事行動マニュアルとして「式」を整備する。約50年後の[[宝亀]]11年([[780年]])になっても[[大宰府]]に対して、宇合の式に基づいて警固を行うように[[勅令]]が出ており<ref>『続日本紀』宝亀11年7月15日条</ref>、宇合が整備した式が後世に引き継がれ活用されていた様子が窺われる<ref>土佐[2012: 4]</ref>。天平6年([[734年]])[[正三位]]に至る。
 
天平9年([[737年]])[[平城京]]中を[[疫病]]{{読み仮名|猖獗|しょうけつ}}を極める中、8月5日に藤原四兄弟の最後に[[崩御#薨去|薨去]]した。[[享年]]44。最終[[官位]]は正三位参議式部卿兼[[大宰帥]]。
 
== 官歴 ==
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* 母:[[蘇我娼子]]([[蘇我連子]]の娘)?<ref>『尊卑分脈』等。ただし、反対論も根強くはっきりしたことは不明。</ref>
* 妻:石上国盛<ref>『公卿補任』</ref>([[石上麻呂]]の娘)
** [[長男]]:[[藤原広嗣]](?-740)
** 次男:[[藤原良継]](716-777)
* 妻:高橋阿禰娘(高橋笠朝臣の娘)
72行目:
** 女子:[[藤原魚名]]室
** 女子:[[藤原巨勢麻呂]]室
** 女子:[[藤原掃子]] - [[藤原綱継]]母?
 
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献出典 ==
*[[宇治谷孟]]『続日本紀 (上)』[[講談社]]〈[[講談社学術文庫]]〉、1992年
*『尊卑分脈 第二篇』[[吉川弘文館]]、1987年
90行目:
* [[太山寺 (神戸市)|太山寺]]
 
{{デフォルトソートDEFAULTSORT:ふしわら の うまかい}}
[[Category:藤原式家|*うまかい]]
[[Category:奈良時代の貴族]]