「末松謙澄」の版間の差分

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明治37年([[1904年]])に日露戦争が勃発すると、伊藤を含めた政府・[[元老]]達からヨーロッパに対する日本の立場を説明し好意的な世論形成、および日本への悪感情を和らげるため[[黄禍論]]の拡大防止を含めた広報活動を命じられ、宣戦布告した[[2月10日]]に[[カナダ]]・アメリカ経由で渡欧([[2月24日]]に伊藤から同様の命令を受けた[[金子堅太郎]]が渡米)、3月にイギリスに到着すると広報を開始、イギリス・[[フランス]]を主として戦争に対する日本の弁護論と偏見に対する反論演説を展開した。明治38年([[1905年]])までに黄禍論は沈静化したことを政府に打電しつつ、なおもヨーロッパに留まり新聞取材や演説・論文寄稿などを続け、明治39年([[1906年]])1月にフランスを出発して2月に帰国、海外の功績を認められ3月に[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]、翌明治40年([[1907年]])に子爵に昇叙、帝国学士院会員にも選ばれた。
 
明治44年([[1911年]])、中断していた毛利氏歴史編纂事業が[[明治維新]]全体の歴史を纏めた一級資料『[[防長回天史]]』として初版脱稿された。[[ローマ法]]も研究するようになり大正2年([[1913年]])に『ユスチニアーヌス帝欽定羅馬法提要』、大正4年([[1915年]])に『ガーイウス羅馬法解説』『ウルピアーヌス羅馬法範』を翻訳・刊行した。大正9年(1920年)9月に『防長回天史』修訂版を脱稿するが、10月5日、全世界で大流行していた[[スペイン風邪かぜ]]に罹患したことが原因で死去。[[享年]]65。子が無かったため、甥の[[末松春彦|春彦]]が爵位を相続した<ref>松村、P11 - P51、P250 - P285、P310 - P317、霞会館、P768、臼井、P546、小山、P224 - P225、伊藤、P486 - P487。</ref>。
 
墓は[[東京都]][[品川区]]北品川4丁目の[[清光院]]、[[法名]]は蓮性院殿古香青萍大居士。