「裃」の版間の差分
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== 概要 ==
裃は「肩衣」(かたぎぬ)という上半身に着る袖の無い上衣と、「袴」の組
== 歴史 ==
上で述べたように肩衣には袖が無いが、袖無しの衣服
[[ファイル:Odanobunaga.jpg|thumb|180px|「織田信長像」 [[狩野元秀]]筆、[[天正]]11年(1583年)。肩衣の形や袴の相引(袴の両脇縫い目の部分)にも紋があるなど、裃としては江戸時代以前の古い様式をあらわしている。]]
肩衣と袴の組合せによる裃の起源は明らかではないが、[[
[[ファイル:Nakamura Kuranosuke by Ogata Korin (Yamato Bunkakan).jpg|thumb|130px|「中村内蔵助像」 [[尾形光琳]]筆、[[元禄]]17年(1704年)。描かれている裃は、現在見られるものにかなり形が近くなっているのが伺える。]]
もとは素襖から袖と胸紐を外しただけの構造であったらしいが、やがて肩衣のまえ身ごろに襞を取り細くして、打合せで着るのではなく、袴に裾を差込むかたちに変化した。その後
紋の位置は、直垂と同じく肩衣の背と両胸、袴の腰板と相引(あいびき)の六箇所が本来であったが、江戸時代になると相引の紋は略されるようになってゆく。また袴も、江戸期には[[大名]]と[[御目見
古くは[[木綿]]で仕立てた肩衣もあり<ref>「よろづ存旨共候…もめんかたぎぬめされ候、なかなか見わるく候、やめられるべく候」(『結城氏新法度』、[[弘治 (日本)|弘治]]2年〈1556年〉)。『中世法制史料集第三巻 武家家法Ⅰ』(岩波書店、1965年)294頁。</ref>、[[繻子]]や[[緞子]]で仕立てた裃も普通に用いられたが<ref>「昔は仕官の人なども繻子純子<small>(緞子)</small>などの上下<small>(裃)</small>を着たるなり。今も越後の農家などにて婚姻などはれの時は、純子錦の上下を用ふときけり。戯場<small>(しばゐ)</small>にては常のことなり。これらもみな古風のなごりといふべし」([[山崎美成]]著『世事百談』巻之一、「純子の上下」)
[[幕末]]になると裃に代えて[[羽織]]袴を平常服とすることになり、[[慶応]]3年(1867年)の[[大政奉還]]以後、公人が裃を着用することは廃されたが、伝統芸能や祭礼などの民間の諸行事においては現在でも用いられている。
== 種類 ==
* '''半裃'''(はんかみしも) - 通常の裃。長裃に対して、袴が通常の丈であることからこの名がある。起源的には長裃より古くから存在するが、長裃
* '''長裃'''(ながかみしも) - 裃の袴
* '''継裃'''(つぎかみしも) - 肩衣と袴が同じ色や生地ではない裃。袴は半裃と同様、通常の丈である。半裃よりさらに略式の礼装とされるが、現在ではほとんど用いられない。江戸時代には京の公家も日常でこの継裃を着用していた<ref>『伝奇作書』([[西沢一鳳]]著)には[[嵐小六 (3代目)|初代嵐雛助]](1741年 - 1796年)が[[石川五右衛門]]を演じた時、五右衛門が公家に化けて餅屋に現れる場面で継裃を着たことが次のように記されている。「…餅屋場、中納言となり冠装束にての出も、雛助は京都芝居にてせし折は、継上下<small>(裃)</small>にてして当りを取りしとぞ。只十三里の道なれど、皇都は公家衆の通行を毎度見来り、浪華の者は公卿といへばいつも冠装束なりと思ふ者多し。ゆへに大坂にては譬へ背けたり共<small>(とも)</small>、公家といへば冠装束にてし、京都にては継上下にす」(『伝奇作書』続編下の巻、「古名人役者に妙ある話」)</ref>。
* '''肩衣と前垂れ''' - [[浄瑠璃]]や[[長唄]]など江戸時代に町人のあいだで発達した[[邦楽]]では、舞台上で裃を用いるとき袴を履かず、肩衣に「[[前垂れ]]」をつけることによって代用する。
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