「九州平定」の版間の差分

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== 戦後処理 ==
5月13日 秀吉は羽柴秀長へ全11ヶ条の「条々」を下す。大隅・日向両国の「人質」解放を命令したこと、[[長宗我部信親]]の戦死を悼み大隅国を長宗我部元親へ下す予定、[[島津義久]]降伏の様子、[[黒田孝高]]を添えて[[毛利輝元]]、[[小早川隆景]]、[[吉川元長]]を[[薩摩国]]に移陣させること、志賀親善の忠節に報い[[大友宗麟]]の判断で[[日向国]]内に城を与えること、[[大友義統]]と談議し[[豊後国]]内の不要な城の破却命令、日向国における大友宗麟の知行取分は大友宗麟の覚悟次第とすること、[[宇喜多秀家]]、[[宮部継潤]]、[[蜂須賀家政]]、[[尾藤知宣]]、[[黒田孝高]]に[[日向国]]、[[大隅国]]、[[豊後国]]の城普請および城わりを命令、[[豊前国]]の不要な城の破却と豊後・豊前国間に一城構築すべきこと、越権行為は成敗することを通達。「大友家文書録」
[[ファイル:Hakozaki-miya090806a.jpg|180px|right|thumb|秀吉が九州国分を発表した筥崎八幡宮(福岡市東区)]]{{main|九州国分|バテレン追放令}}
義久が降った後も、飯野城に籠った島津義弘、婿養子忠隣を失った[[島津歳久]]らの抵抗が続いた。[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]、義弘は義久の説得により子息[[島津久保]]を人質として差し出すことを条件に降伏した。