「千日手」の版間の差分

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|▲大山康晴 持駒:飛歩二}}
 
*1906年、[[関根金次郎]]と[[阪田三吉]]との戦いで、終盤、阪田が千日手の「攻め方打開」のルールを知らず、無理に打開してペースが狂い惜敗する。なお、戯曲や映画作品の『[[王将]]』の中では、「坂田が、関根との初の戦いで、千日手を知らずに指し、ルールで強制的に負けにさせられた」と、誇張された表現になっている(実際は、阪田・関根戦の初戦ではない)
*かつて{{いつ|date=2013年11月}}、[[木村義雄]]は[[名人戦 (将棋)|名人戦]]で千日手を回避し、それが元で敗北してしまった。観戦記者の[[坂口安吾]]はこれを厳しく批判し、「千日手を回避すると負けてしまう状況なら、勝負を重んじて千日手にするべきだ」と論じている。
*第18期(1979年度)[[十段戦 (将棋)|十段戦]][[大山康晴]] 対 [[加藤一二三]]王将の一戦では、加藤の攻めを大山が受け、95手目に千日手模様となった。しかし加藤は打開しようとせず、金銀の打つ順番を変える、馬を入る、不成にするなどで同一手順を回避しながら長引かせた。これに大山は激怒し、時計を止めて[[丸田祐三]]に電話し裁定を依頼するも、「現行のルールでは裁定できないから、指し続けてください」とあしらわれてしまった。結果、この手順の繰り返しと電話の間に加藤は打開の手順を読み、179手で勝利している。この対局では76手千日手模様が続き、最多の同一局面は8回出現していた。この後、前述の米長邦雄対谷川浩司戦でも同様の事例が発生し、千日手のルールが改定されることになった。