「二箇相承」の版間の差分

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*[[1350年]]([[正平 (日本)|正平]]5年)、摧邪立正抄には次のように記されている。
:抑大聖忝くも真筆に戴する本尊、日興に授くる遺札には白蓮阿闍梨と云々。(宗全2)
「日興に授くる遺札」が二箇相承である証拠はないが、なんらかの相承書があったとみることができる<!-- {{誰範囲|(「白蓮阿闍梨」とある遺文は二箇相承以外に無いから、二箇相承を指していると考えられる。)|date=2018年5月}} -->
 
日蓮の弟子たちは、日蓮の教えを[[法 (仏教)|法]]と呼び、これを正しく伝えることを相承、付属、付法などと呼んでいる。唯受一人(ゆいじゅいちにん)[[血脈相承]]とも嫡々付法ともいい、日興が正統であるという主張の根拠としている。厳密には、二箇相承と血脈相承とは別ものである。ただ日興のみ一人が相承したという日興門流の主張は、他の日蓮各派は認めていない。
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日蓮正宗では、『身延山付嘱書』(別付嘱書・池上相承とも。'''二箇相承'''の一。)を根拠として、日興が宗祖滅後から身延離山まで7年間身延山久遠寺別当を務めた、と主張している{{Sfn | 富士学林研究科 | 2006 | pp =7-8,12}}{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 181 | ps = -但し、身延山付嘱書の別名が別付嘱書・池上相承であること、二箇相承の一であること、別当退任の時期を除く。}}{{Sfn | 日蓮正宗宗務院 | 1999 | p = 230 | ps = -但し、日興が宗祖滅後7年間身延に住んだとすることのみ。 }}。その一方で、日蓮宗は、同書を偽書とし{{Sfn | 宮崎英修 | 1978 | p = 185 }}{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 294 }}、同主張を是としていない<ref group="注釈">{{Harv | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 1315 }}に、身延山の開山は宗祖、2世は日向とある。</ref>。
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しかし、弘安5年12月11日(宗祖が入滅した弘安5年10月13日の後に、宗祖御灰骨が身延に帰山した直後)に身延の地頭・波木井実長(日円)が日興に送った『波木井日円状』(宗全1-197。西山本門寺蔵)末文に、「まことに御経を聴聞仕り候も、聖人の御事はさる御事にて候、それにわたらせ給い候御故とこそひとえに存じ候え、よろず見参に入り候て申すべう候」とあり、「まことに身延の山で毎日御経をあげてくださり、それを皆で御聴聞できるという事は、聖人(日蓮)がおいでなさった時の御事の有り難さは勿論申すまでもない事ですが、ただ今あなた(日興)が身延においでになる故にこそ、と本当に私(波木井実長)はありがたい事であると唯ひとえに存じ上げております云々」と日興が日蓮の後を継ぎ身延山久遠寺別当(住職)として在住していることを悦び感謝の意を述べていること、弘安8年に身延に登山してきた日向が日興により学頭職(別当を補佐する役)に補任されていることなどから、日興が日蓮の後を継ぎ、身延山久遠寺2世別当(住職)として守護管理していたことは歴史的事実であり、[[日蓮正宗]]の主張が正しく、日蓮宗の「身延山2世・日向」との主張は歴史的事実に反し間違っている{{誰|date=2018年5月}}。-->
 
== 脚注 ==