「倒幕運動」の版間の差分

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長州藩はその後も、[[1964年|1864年]]5月に[[国際法]]に違反して再び[[下関戦争]]を起こしたが、その後の6月に[[第一次長州征伐]]が行われた後は佐幕派(俗論派)が藩政を握り、討幕運動は表向きは下火となった。しかしながら、[[高杉晋作]]などの[[正義派]]は、再び佐幕派を打倒するようになった。[[1865年]]には英国[[グラバー商会]]から薩摩藩名義で蒸気船軍艦[[ユニオン号]]を購入するなどして武力を蓄えながら、討幕の構想を維持していた。
 
他方、薩摩藩は[[1963年|1863年]]に[[薩英戦争]]に敗退でイギリスの優れた技術力を身をもって経験し、また幕政改革に関する方針が幕府とは異なっていたことから、[[1866年]]3月7日、密かに長州藩と[[薩長同盟]]を結んだ。ただ、その2日後の3月9日には佐幕派として[[土佐藩]]の討幕派である[[坂本龍馬]]などを粛清している([[寺田屋事件]])<ref>このとき龍馬は[[長州藩]]の[[高杉晋作]]にもらった拳銃を所持していた。</ref>。
 
そして長州藩は、[[1966年|1866年]]6月には幕府の[[第二次長州征伐]]の征討軍を撃退し、その権威を低下させることに成功した。