「臨済義玄」の版間の差分

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'''臨済 義玄'''(臨濟 義玄、りんざい ぎげん、諡号:慧照禅師、?-[[867年]])は、[[中国]][[唐]]の[[禅僧]]で、[[臨済宗]]の開祖。[[曹州]][[南華県]]([[山東省]][[カ沢市|菏沢市]])出身で俗姓は[[邢氏]]。
 
彼の言行は弟子の[[三聖慧然]]によって『'''[[臨済録]]'''』としてまとめられており「語録の王」と称された。
 
== 生涯 ==
臨済は[[大悟]]する以前、ひたすら[[坐禅]]の修行に励む日々を送っていた。三年ほど経ったある日、首座の和尚(一番上の弟子)に「黄檗老師に参禅して教えを受けたことがあるか」と尋ねられた。
 
臨済は「何をたずねたらよいかわかりませんので、参禅したこともありません」と答えると、首座和尚は「どうして老師のところに行って、仏法の限界はどういうものか?』とたずねないのか」といい、臨済はいわれるままに黄檗のところに参禅したのだが、その質問も終らぬうちに黄檗の三十棒を喰らってしまった。
 
首座が「どうだった」とたずねたので、臨済が今の出来事をありのまま報告すると、首座は「もう一度、同じ質問をして来い」という。このようにして、三度、老師に参禅して三度とも痛棒を喰らった臨済は、もはや自分に[[禅]]を探究する資格はなきものと絶望し、黄檗山を下ることを決意。臨済がして別れの挨拶にやってくをすと、ため黄檗のもとを訪れると、老師は「他所へ行ってはならぬ。ぜひとも高安の灘に住んで居られる大愚和尚を訪ねるがよかろう」と指示された。
 
臨済は言われるがまま大愚のもとを訪ね、「いったい私に落ち度があったのでしょうか」と問い言った。すると大愚は「'''黄檗は、まるで老婆が孫でも可愛がるようじゃないか。お前のためにくたくたになるまで計らってくれているのに、その上わしのところまでやってきて、落ち度があったかどうかなどと聞くとは何ごとだ'''」といった。臨済はこの大愚の一言で大悟したのである。
 
大悟した臨済は大愚に向かって「なんだ、黄檗の仏法といってもこんなわかりきったことなのか」とうそぶいた。すぐに大愚は臨済を引っつかんで「この[[寝小便]]たれ小僧め!たった今、落ち度があったのでしょうか、などと泣きごとを言ったくせに、こんどは黄檗の仏法は端的だなどと言う。いったい何が分かったのだ。さあ言ってみろ! さあ言ってみろ!」と問いた。
 
すると臨済は大愚の脇腹を三発ばかり拳で殴り、本物だと分かった大愚は掴んだ手を突き放し「そなたの師は黄檗和尚だ。わしの知ったことではない。帰れ! 帰れ!」と言った。臨済は再び黄檗のもとに戻って事の顛末を報告すると、黄檗は「何とかしてあいつに会って今度一発お見舞いしてやりたいものだ」といった。すると臨済は「'''やりたいものだもあるものか。今度といわず、今すぐ喰らえ!'''」と言うや否や黄檗の横面に思い切り平手打ちを喰らわした。
 
殴られた黄檗は大笑して「'''この[[きちがい|気狂い]]め! よくもわしに向かって虎のひげを撫でるようなことをしおったな!'''」と言った。臨済はすかさず「'''喝ーっ'''」と一喝した。この一喝に黄檗は心から満足し「[[侍者]]よ、この気狂いを禅堂に連れて行け」と言った。これが黄檗の[[印可]](悟りを証明すること)の言葉だった。
その宗風は[[馬祖道一]]に始まる[[洪州宗]]の禅風を究極まで推し進め、中国禅の頂点を極めた。その家風は「'''喝'''」(怒鳴ること)を多用する峻烈な禅風であり、[[徳山宣鑑|徳山]]の「'''棒'''」とならび称され、その激しさから「'''臨済将軍'''」とも喩えられた。
 
[[867年]][[1月10日]]、臨済は弟子の[[三聖慧然]]を枕辺に呼び「私が死んでも[[正法眼蔵]](仏の伝えた尊い教え)を滅ぼしてはならないぞ」と述べ、慧然は「どうして老師の正法眼蔵を滅ぼしたりなどできましょう」と応えた。すると臨済は「では今後、人がお前に尋ねたならどう応えるのか」と問うと、慧然は「喝ーっ」と一喝した。臨済は「'''わしの正法眼蔵が、この馬鹿坊主のところで滅びてしまうとは、いったい誰が知るであろうか'''」といい、そのまま端然として[[遷化]]したとされている。
 
== 語録 ==