「わろてんか」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
IwaimBot (会話 | 投稿記録)
m WP:BOTREQ: oldid=68442871: 廃止されたテンプレートの除去: {{ドラマ}}
101行目:
昭和15年(1940年)、台本修正したものの映画は無事完成。昭和17年(1942年)、戦局は激しくなり、日を追うごとに芸人らが徴兵されていく現状を憂いながらも執筆していた万丈目は、体調を崩し歌子と共に帰郷する。昭和19年(1944年)3月には南地風鳥亭に[[疎開#建物疎開|建物疎開]]のための取壊しが通告。他数か所の寄席小屋も建物疎開の対象となり閉鎖を余儀なくされる。その直後、隼也に[[召集令状]]が通達され、風太の計らいで隼也の帰宅が実現する。折しも隼也一家の住まいも建物疎開が決定したこともあり、てんはつばきと藤一郎の受け入れも承諾。そして隼也の謝罪を受け止めるとともに自身の駆け落ちや実家への借金を打ち明けて和解し、隼也の出征を見送る。昭和20年(1945年)1月、大阪も空襲を受け、北村宅も半壊する。てんは風太の勧めで、つばき親子とトキ親子とともに滋賀の[[米原市|米原]]に疎開することと、北村笑店の解散を決意。芸人たちと再び天満風鳥亭で再会することを約束し、芸人長屋を後にする。
 
疎開先の家主・'''横山治平'''は、戦時下にも関わらず笑顔を絶やさないてんたちに厳しく当たるが、彼女らが「[[wikt:笑う門には福来たる|笑う門には福来たる]]」を信念に、努めて笑っていると知り打ち解ける。そんなか、[[大阪大空襲]]で安否不明となっていた風太が、命がけで守った風鳥亭の看板を持って疎開先に現れる。やがて8月15日には終戦を迎え、てんが大阪に戻ると、天満風鳥亭は焼けくずれ瓦礫の山となっていた。風太は寄席小屋再開に向け意気込むも、生存確認出来た社員・芸人らは戻れる状況になく、てんは落胆する。しかし帰国した栞が昭和21年(1946年)春に現れて再開を後押しし、社員・芸人らも徐々に戻り、隼也も無事に帰還する。てんたちは、寄席小屋再開に団結し、戻ってきた社員・芸人総出で、仮設の寄席舞台で青空喜劇「北村笑店物語」を開演。観客は大盛況の笑いに包まれ、成功を収める。
 
終演後、てんは幽霊となって現れた藤吉と語り合う<ref>{{cite news|url=http://www.nhk.or.jp/warotenka/special/art/03.html|title=美術の世界 3|work=番組公式サイト}}</ref>。てんは、この先100年寄席小屋を続けることを誓ったうえで、藤吉に「わろてんか」と問いかける。藤吉は笑顔で承諾し、物語は幕を閉じるのであった。