「ルイ14世 (フランス王)」の版間の差分

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=== 親政の開始 ===
[[ファイル:Adam Frans van der Meulen Louis14- The crossing of the Rhine at Lobith, 12 June 16721.jpg|thumb|150px|青年期のルイ14世。<br />[[シャルル・ルブラン]]画、1661年。]]
[[1661年]]3月にマザランが死去するとルイ14世は[[親政]]を開始し、以後は宰相を置かないことを宣言する<ref>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],p.121,123.</ref>。親政期に行政機構の整備が行われ、ルイ14世は国の最高機関である国務会議から王太后や王族・大貴族を排除し、国務会議の出席者及び各部門の責任者に法服貴族を登用するなどして大貴族の権威を低下させ、新興貴族層やブルジョワ階層の登用で王権を強化した<ref>[[#長谷川 2002|長谷川 2002]],p.123;[[#山上 1975|山上 1975]],pp.227-229.</ref>。ルイ14世の最高国務会議の出席者は3~5名程度のごく少数であり、長い治世を通しても全部で17名、その内の帯剣貴族は3名に過ぎない<ref>[[#林田 1996|林田 1996]],pp.201-202.</ref>。{{仮リンク|ルイ・ド・ルヴロワ・ド・サン=シモン|label=サン=シモン公|en|Louis de Rouvroy, duc de Saint-Simon}}はルイ14世の時代を「いやしいブルジョワどもの長い治世」と評している<ref>[[#山上 1975|山上 1975]],p.227.</ref>。また、[[1667年]]と[[1673年]]の王令で高等法院から建言権を取り上げ、高等法院の抵抗を排除した<ref>[[#長谷川 2009|長谷川 2009]],p.269.</ref>。
 
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三国同盟は長続きしなかった。[[1670年]]、イギリス王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]は[[ドーヴァーの密約|ドーヴァー秘密条約]]を結んでフランスとの同盟に加わり、オランダと絶縁した<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]], pp. 61-62</ref>。次にルイ14世は、イギリスと同様な[[仏瑞同盟|同盟条約]]を結んでいたスウェーデンに参戦を促した<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]], p. 62.</ref>。しかしスウェーデンの参戦は、オランダと結んだ[[デンマーク]]と[[ブランデンブルク=プロイセン]]の参戦を招き、戦線がオランダから離れてしまうことになる。
 
[[ファイル:Louis14Adam Frans van der Meulen -C The crossing of the Rhine at Lobith, 12 June 1672.jpg|thumb|275px|ライン川渡河作戦でのルイ14世。(1672年)<br />{{仮リンク|アダム・フランス・ファン・デル・ミューレン|label=ミューレン|en|Adam Frans van der Meulen}}画]]
[[1672年]]に海上からイギリス軍が、陸上からはフランス軍がオランダに攻め込んだ([[仏蘭戦争]])<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]], p. 152; [[#金澤 1966|金澤 1966]], p. 63.</ref>。オランダは海軍こそ名将[[ミヒール・デ・ロイテル|デ・ロイテル]]のもとで強力であったが、陸軍は弱体であった<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]], p. 64.</ref>。フランス軍は快進撃を続けて[[アムステルダム]]に迫り、占領地の住民の歓心を得るために金品をばらまく余裕さえ見せた<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]], pp. 64-65.</ref>。譲歩による講和を図ったウィットは兄の[[コルネリス・デ・ウィット]]と共に不満を抱いた民衆に殺害され、代わってオラニエ公が権力を掌握する<ref>[[#千葉 1984|千葉 1984]], pp. 152-153; [[#金澤 1966|金澤 1966]], p. 65.</ref>。オラニエ公は堤防を決壊させて国土を泥沼に沈めて徹底抗戦の構えを示し、海軍もイギリス艦隊を破って制海権を維持した<ref>[[#金澤 1966|金澤 1966]], pp. 65-66.</ref>。