「木谷道場」の版間の差分

[[小林光一]]の内弟子時、木谷の家には小林を含めて8人の内弟子がいた。木谷が体調を崩して以降に入門したため打つ機会は無かった。内弟子になった最初の日に、腰におもちゃのピストルをぶら下げた子供が部屋や廊下あたりを走り回っていた。小林は近所の子が紛れ込んだと思っていたが、これが当時8歳だった[[趙治勲]]だった。小林とは定先くらいの手合で1、2歳年上の小林より8歳の趙治勲のほうが強いことに小林はショックをうけた。小林は毎日朝5時半にはもう勉強を始めていた。<ref>[http://textview.jp/igo NHKテキストview]</ref><ref>『囲碁人』</ref>そして10歳でプロになれると言われていた趙治勲を追い越し、小林光一が先に入段を果たした。小林光一の入段を見て、今度は趙治勲が奮起し、11歳でプロ入りする。お互いがいい刺激を与え合った。<ref>囲碁人vol.6</ref>また加藤正夫によく打ってもらっていて、最大6子まで打ち込まれていた。
 
一流棋士の多くが中学卒業までにプロになる中、[[信田成仁]](のぶた しげひと 1951年9月-)は中学3年生の時に碁を覚えた。武宮正樹の対局の観戦記に四谷の木谷道場の紹介があったのをみて12月に門を叩く。信田は137cmと小さくランニング、短パン姿だったので「3年生」と言ったら小学3年生と間違われ中に入ることが出来た(当時棋力は3級ほどで中学3年なら遅すぎるが小学3年なら遅くはない)。中に入り宮沢吾郎や小林覚と打ちボロボロに負かされ7子置いても負かされた。その後木谷に土曜木谷会に遊びに来るように言われ、受験勉強そっちのけで碁に没頭した。そのまま高校浪人し新聞配達をしながら碁会所に入り浸った。16歳の時に通い弟子になることを許された。18歳から内弟子になった。そして研修棋士(当時の制度)として院生と一緒に勉強するようになった。そして1973年入段を決めた。プロ試験の最後の相手は小林覚だった。覚は信田に勝てば合格だったが緊張のあまりガチガチになっていおり信田は勝利することが出来た。覚はこの年合格できなかったがこれ発奮して翌年合格した。「信田さんを入段させたのが、木谷道場の一番といっていい奇跡では」と覚は述べている<ref name=":3" />。
 
== 木谷の逝去後 ==
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