「西郷隆盛」の版間の差分

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オクヤマ (会話 | 投稿記録)
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* [[増田宋太郎]] 「一日西郷に接すれば一日の愛生ず。三日接すれば三日の愛生ず。親愛日に加わり、今は去るべくのあらず。ただ死生をともにせんのみ」
*[[小川一徹]] 「さてもかかる勇夫大胆の人、今の世にあるとは、思ひもよらざる程の人に御座候。極めて大事を成す人と存じ候。かかる勇士もあればあるものと感心仕り候。しかも、猪武者にては、これなく候」
*[[寺師宗徳]] 「自分は子供の頃から隆盛の顔を見る度に恐い男だと思った」<ref>『七英八傑』近代デジタルライブラリー< name="shichi"/ref>
*[[柴山矢八]]
**「平素は誠に物柔らかな親切な人であったが、一たび憤慨して話をする時は、その事柄が顔色にありありと現われるような感じを与える。一度翁に接すると、十人が十人とも隆盛の威望に感激して座を去らざる者は無いと云う程で、誠に近来の大人格である。私は欧羅巴に行った時、ビスマルク、モルトケなどに逢ったが、ビスマルクは如何にも隆盛の風貌性格に髣髴たるものがあって、相接して恐ろしいような感じがした。今まで人に接した中で、私の敬服したのは、第一に隆盛で、次にビスマルクである」<ref>『七英八傑』近代デジタルライブラリー< name="shichi"/ref>
**「人に接するにも、礼儀が厳粛で、一時間でも二時間でも正座して、遂に膝を崩したことがない。我々小僧に対してもその通りで、帰る時は玄関に自ら送って来て、ちゃんと両手を突いて別れを告げるという風だから、私などは恐縮した」<ref>『七英八傑』近代デジタルライブラリー< name="shichi"/ref>
*[[伊瀬地好成]] 「隆盛は実に偉い人でした。まるで全知全能ぢゃ。偉大なる體格は、爛々たる眼光と共に凛呼として犯すべからざる威望が備わっていた。一たび隆盛の前に出ると、一種のインスピレーションに打たれると同時に、隆盛は甚だ親切である。隆盛の説を聞いて帰る時には、どんな人間でも国家の為に慷慨せんければならぬ様になった」<ref>『七英八傑』近代デジタルライブラリー< name="shichi"/ref>
*[[市来政方]] 「私と隆盛とは叔姪の関係でもあり、よく側に居て、色々話などを聞きましたが、子供心何となく怖いような、心の中に、又一種云われぬ慕わしいような所があって、どうも偉い人という感覚が頭の中に染み込んで居りました。隆盛が国へ帰って来るという時など子供のことですから、叔父さんが来ると云うので、嬉しく思いましたが、何だか怖いような心持もしてなりませんから、自分ばかりこんな気がするのかと思って、兄に聞いてみますと、俺もそうだと云います。兄は私より大分年上でしたが矢張り同じような心持であったものと見えました。しかし、いよいよ帰って来て会って見ると、何にも云わないが、温故風貌、唯々懐かしいと云う情に捕われるようなことでした」<ref>『七英八傑』近代デジタルライブラリー< name="shichi"/ref>
*[[高島鞆之助]]
**「隆盛は朝廷に対し奉り、または藩主に対しても、いつも忠厚禮嬢の心を失わなかった。隆盛は元帥であったのだが、その後陛下が大元帥で御出でになるということを知ってから、畏れ多いとて元帥の名は決して用いず、始終陸軍大将というので済まして居た。また藩主に何か申し上げる折でもあると、その日は朝早く起きて沐浴斎戒し、あの磊落な人がきちんと机に座って、少しも體を崩さず文言をしたためて居た。何時如何なる場合にも禮譲という事を忘れなかった」<ref>『七英八傑』近代デジタルライブラリー< name="shichi"/ref>
**「隆盛は平日談国事に亙れば、横になって居ても起きて端座し、もし談皇室にでも及んだならば、座布団を外して語るを例とした」<ref>『七英八傑』近代デジタルライブラリー< name="shichi"/ref>
**「隆盛の遣り口は、公私に論無く、赤心を人の腹中に推すという側であった。山形帰順の折でも、藩主と会見の翌日、云わば昨日までの敵地を平気で唯一人で巡覧と出掛けた。そして少しも不安な気色も無く、悠々と出て悠々と帰った。その豪胆なしかも人を疑わぬ赤心には彼地でもすっかり心服して、さすがに隆盛は豪いと賛嘆せぬ者は無かった。有名な江戸城の受渡しも先ずこれの大きなもので、隆盛は権変譎詐の方略などは爪糞ほども用いぬ。何時も正々堂々、正義によって行動した。ここが大抵の人に出来ぬ傑出の所である」<ref>『七英八傑』近代デジタルライブラリー< name="shichi"/ref>
*[[長岡護美]] 「自分は明治の初年に始めて洋行を命ぜられた時、御礼廻りに隆盛を訪ねた。丁度その日は雪が降り積もった日であったが、座に着いて種々洋行に就いての御注意談もあって、辞し去らんとすると玄関まで送ろうとするから、再三辞退すると一向聞き入れなく、遂に玄関にまで送って出た。そこで玄関で一損すると思いきや、隆盛はすたすたと玄関先の雪地の下り、地べたに手をついておじぎをした。あの時ほど閉口したことは未だ嘗て無い。そこで自分も泡喰って同じく地べたに手をついて御暇した」<ref>『七英八傑』近代デジタルライブラリー< name="shichi"/ref>
*[[高橋新吉]] 「隆盛は器局の大きい偉大な人格の人であった。利通は厳格な人でその荘重な唇を動かして、一たび天下の経綸を説くや、立言堂々として大政治家というものはこんな人であろうと思わしめたが、隆盛に至っては直ちに赤心を人の腹中に推して、情理並び到り、その崇高なる人格の力は直ちに強度に人をチャームして、もうこの人の為めならば命も惜しくないと云う感想が先だって来る。私はどちらが豪かったとは云わぬが、しかしこの力は確かに利通には乏しかったと思う」<ref>『七英八傑』近代デジタルライブラリー< name="shichi"/ref>
*[[山下房親]] 「庄内は隆盛の意の如く降服することになったから、米沢口、秋田口、村上口等の官軍は続々庄内城下へ繰込む。私の一体は村上口からであったが、今朝まで戦争をやって、敵が山へ引き上げて行くのも構わず進軍するのだから、兵卒共が衝突でもしはしないか、庄内藩士等は君公の命で已むなく降服するも内心では不服で堪らず、特に隊長等は石の上に腰を掛け、残念だなあと憤慨して居る故、実に危険千萬であったが、幸いに無事であった。西郷は二三日遅れて村田新八等と共に米沢口から乗り込んで来て『お前方の御苦労で降参になって仕合せだ。就いては一日も早く引き上げて仕舞うが宜い。これだけ多い兵士が庄内に屯集して居て、庄内の米を食潰すのは甚だ気の毒な次第だから』と云ったが、自分は承知せず『成程、藩主は真に降服しても将卒は皆内心不平で、何時また破裂するか分らないから、今引上げるは不得策だ』と反対した。すると隆盛はにっこり笑って『武士が兜を脱いで降服した以上は跡を見るものぢゃない。宜いぢゃないか、また起ったらまた来て討つける迄の事さ』と訳もなく云った。この一語には実に一同感心して引上げてしまった。庄内藩では今もその当時の隆盛の処置に対し、感謝して居るそうだが、隆盛が人を心服せしむるのは、常にこの点にあるのである」<ref>『七英八傑』近代デジタルライブラリー< name="shichi"/ref>
*[[三浦梧楼]] 「西郷の美点は情に厚い、慈悲深い、全く自己と云うものが眼中になかった点にある」<ref>『観樹将軍豪快録』近代デジタルライブラリー</ref>
*[[前原一誠]] 「西郷先生は、どれぐらい大きいか、底が知れぬ」
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**「西郷は強固なる意志を有せるに係わらず、人情には極めて篤かった。この情にもろい結果が、西郷の徳をして盛んならしむると同時に、その生涯の過ちを惹き起したのであろうと察するのである」
**「隆盛は表面からは、中々強毅であるが、裏面から行くと、生気地のないような人であった」<ref>近代デジタルライブラリー『木戸松菊公逸話』</ref>
*[[伊藤博文]] 「天稟大度にして、人に卓出して居って、そうして国を憂うる心も深かった。徳望も中々あったが政治上の識見如何と云うと、チト乏しい様だ。そこで自分にも深く政府に立つことを嫌って居った。盲判を捺すことは嫌で堪らないから、自分の部下を引き連れて北海道へ行こうと云うことを企てたことがあったが、それが変じて私学校と為り、謀反と為った。兎に角大人物ではあったが、寧ろ創業的の豪傑で守成的とは云えない」<ref name="kindai">近代デジタルライブラリー『伊藤侯,井上伯,山県侯元勲談』</ref>
*[[久米邦武]] 「政治家としては、この三人(岩倉、木戸、大久保)に較べると、西郷南州は一段下ると見ねばならぬ。至誠という点においては偉大であったろうが、実際の政務という点では大久保らの比ではない」
*[[板垣退助]] 「維新の三傑といって、西郷、木戸、大久保と三人をならべていうが、なかなかどうしてそんなものではない。西郷と木戸、大久保の間には、雫が幾つあるか分らぬ。西郷、その次に○○○○といくら雫があるか知れないので、木戸や大久保とは、まるで算盤のケタが違う」
*[[山縣有朋]]
**「翁は気宇活濶、千万人の大軍を統率して能く平然たるべき天成の大英雄」
**「西郷という人はマアどうしても非凡の人間である。その果断明決、能く事の利害を察し、そうして能く之を実行する力を持っているというものは到底尋常の人間で出来ないことである」<ref>近代デジタルライブラリー『伊藤侯,井上伯,山県侯元勲談』< name="kindai"/ref>
*[[村田新八]] 「今日天下の人傑を通観したところ、西郷先生の右に出る者はおいもはん。天下の人はいたずらに先生を豪胆な武将と看做しておいもうす。薩摩の人間とて同じでごあす。じゃどん、吾輩一人は、先生を以って深智大略の英雄と信じて疑いもはん。西郷先生を帝国宰相となし、その抱負を実行させることにこそ、我らの責任が掛かっているもんと心得もす」
*[[福澤諭吉]] 「西郷は天下の人物なり。日本狭しといえども、国情厳なりと言えども、あに一人を容れるに余地なからんや」