「観応の擾乱」の版間の差分

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尊氏は義詮に具体的な交渉を任せたが、南朝側は、北朝の意向により[[天台座主]]や寺社の要職に就いた者などを更迭して南朝方の人物を据えることや、[[建武の新政]]において公家や寺社に与えるため没収された[[地頭]]職を足利政権が旧主に返還したことの取り消しなどを求め、北朝方と対立する。義詮は譲歩の確認のために尊氏と連絡し、万一の際の退路を確保するなど紛糾した。
 
一方、尊氏は直義追討のために出陣し、12月の[[薩た峠の戦い (南北朝時代)|薩埵峠の戦い]]、[[相模国|相模]]早川尻([[神奈川県]][[小田原市]])などの戦いで破って翌正平7年(観応3年、[[1352年]])1月、鎌倉に追い込み降伏させる。[[浄妙寺 (鎌倉市)]]境内の延福寺に幽閉された直義は、[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]に急死した。病没とのことだが、この日は高師直の1周忌にあたり、『太平記』は尊氏による毒殺であると記している。
 
=== 破談 ===