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===唐の西域支配===
やがて、西突厥の[[射匱可汗]](在位:[[612年]] - [[619年]]頃)が強盛となると、今まで離反していた西域諸国や鉄勒諸部は再び西突厥に附いた。一方で中国も[[唐]]の[[太宗 (唐)|太宗]](在位:[[626年]] - [[649年]])のもとで最盛期を迎え、再び西域経営に着手することとなったため、西域諸国は中国への朝貢を再開した。隋末の動乱以降、中国への朝貢を遮断していた高昌はこれに不満を持ち、隣国の焉耆や伊吾を攻撃したため、太宗の招集がかかった。しかし高昌王の[[麴文泰]]がこれに応じなかったため、[[貞観 (唐)|貞観]]13年([[639年]])、交河道大総管の[[侯君集]]率いる唐・[[東突厥]]・鉄勒連合軍の討伐に遭い、翌年([[640年]])高昌国は滅ぼされ、その地に西州都護府(のちの[[安西都護府]])が置かれた。同じ年、焉耆国と西突厥が親密な関係になったことから、西州都護の[[郭孝恪]]はこれを撃つべく上書し、許可が下りたので、軍を焉耆王の弟の栗婆準に誘導させて焉耆王の龍突騎支を捕えた。郭孝恪は栗婆準に功があったということで、彼に焉耆国の国事を摂らせて帰還した。しかし、焉耆国は栗婆準の従父兄の薛婆阿那支を立てて王とし、西突厥の処般啜が栗婆準を捕えて亀茲国に送り殺害すると、薛婆阿那支は処般啜と同盟を組んだ。
 
貞観20年([[646年]])、太宗は左驍衛大将軍の[[阿史那社爾]]を遣わして崑山道行軍大総管とし、安西都護の郭孝恪,司農卿の楊弘礼が率いる五将軍と、鉄勒の13部の兵10余万騎を発して亀茲国を討伐した。阿史那社爾は西突厥の処月種と処密種を破ると、進軍してその北境に急行し、不意をついて焉耆王の薛婆阿那支を撃ち、捕えて斬った。これによって亀茲国は大いに震撼し、守将の多くが城を棄てて遁走した。阿史那社爾は磧石に進んで駐屯し、伊州刺史の[[韓威]]に千余騎を率いさせて前鋒とし、右驍衛将軍の[[曹継叔]]を次鋒とした。韓威らは西の多褐城に至ると、亀茲王と相遇した。亀茲国相(宰相)の那利(なり)と将軍の羯猟顛(けつろうてん)には、5万の兵がいたので、逆に唐軍を防いだ。そこで韓威は遁走をするふりをしてこれを引きつけ、亀茲王・俟利発(イルテベル)の訶黎布失畢(かれいほしつひつ)を30里も前進させると、曹継叔の軍と合流してこれを大破した。亀茲王は都城まで退いたが、阿史那社爾が進軍してこれに迫ったので、都城を棄てて遁走した。阿史那社爾は遂に亀茲城を陥落させ、郭孝恪にここを守らせた。阿史那社爾らはさらに進軍し、撥換城に立てこもる亀茲王を包囲し、亀茲王および大将の羯猟顛らを捕えた。亀茲国相の那利は難を逃れ、密かに西突厥の衆を招き寄せて郭孝恪を襲撃して殺した。倉部郎中の崔義起は曹継叔,韓威らとこれを撃ち、那利を捕えた。こうして亀茲国を占領した唐は訶黎布失畢の弟の葉護(ヤブグ)を立てて亀茲王とし、安西都護府を亀茲城に移して于闐,疏勒,碎葉(これらを四鎮と呼ぶ<ref>719年、碎葉([[スイアブ]])の代わりに焉耆が安西四鎮に加わる。</ref>)を統領させ、郭孝恪を安西都護とした([[648年]])。
 
===阿史那賀魯討伐===
[[永徽]]2年([[651年]])、西突厥の[[阿史那賀魯]]は子の阿史那咥運とともに衆を率いて西に逃れ、[[乙毘咄陸可汗]]の地に拠り、西域諸郡を総有し、牙を雙河([[ボロ川]])及び千泉に建てて自ら沙鉢羅可汗(イシュバラカガン)と号し、咄陸・弩失畢の十姓を統領した。兵数10万を擁し、西域諸国の多くが附隸した。 阿史那賀魯は阿史那咥運を立てて莫賀咄葉護(バガテュルヤブグ:官名)とし、たびたび西蕃諸部を侵掠し、[[庭州]]を寇掠した。
 
[[顕慶]]2年([[657年]])、[[高宗 (唐)|高宗]]は右屯衛将軍の[[蘇定方]]、燕然都護の[[任雅相]]、副都護の[[蕭嗣業]]、左驍衛大将軍・瀚海都督の[[婆閏|迴紇婆閏]]らに軍を率いて討撃させ、右武衛大将軍の[[阿史那弥射]]、左屯衛大将軍の[[阿史那歩真]]に安撫大使とさせた。蘇定方が曳咥河の西まで達すると、阿史那賀魯は胡禄居闕啜など2万余騎を率いて迎え撃った。蘇定方は副総管の任雅相らを率いてこれと交戦し、阿史那賀魯の衆を大敗させ、大首領の都搭達干ら200余人を斬った。阿史那賀魯及び胡禄居闕啜の軽騎は遁走し、伊麗河([[イリ川]])を渡ったが、兵馬の多くが溺死した。蕭嗣業は千泉に至り、阿史那賀魯の本営を突き、阿史那弥射は進軍し、伊麗(イリ川)に至り、処月,処密などの部落は各々衆を率いて来降した。阿史那弥射はさらに雙河(ボロ川)へ進んだ。阿史那賀魯は先に歩失達干に散り散りになった兵士を集めさせて、柵によって防ぎ戦った。阿史那弥射・阿史那歩真はこれを攻め、大破した。また蘇定方は阿史那賀魯を[[碎葉水]](スーヤーブ河)で攻め、これも大破した。
 
阿史那賀魯は阿史那咥運と鼠耨設のもとに身を寄せようと思い、石国の蘇咄城近辺まで来たが、人馬ともに飢えていた。城主の伊涅達干(イネルタルカン:官名)は酒・食料を持って偽って出迎えた。阿史那賀魯らはその詐術にはまり、城内に入ったところを捕らえられた。蕭嗣業が石国に到着すると鼠耨設は阿史那賀魯の身柄を引き渡した。阿史那賀魯は京師に連行された。唐はその種落を分けて[[崑陵都護府|崑陵]],[[濛池都護府|濛池]]の2都護府を置き、諸国を役属することとなり、州府を分けて置き、西は波斯(サーサーン朝)、安西都護府に隷属した。これにより西突厥は唐の[[羈縻政策]]下に入る。