「恵王 (魏)」の版間の差分
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即位に到るまでに[[趙 (戦国)|趙]]や[[田斉|斉]]の介入を許した他、[[秦]]・[[宋 (春秋)|宋]]・[[韓]]などとも争いが絶えず、国力を伸張させることはおぼつかない状況であった。
そのような中で、[[皇族|公族]]でもある[[宰相]]・[[公叔座]]が
魏王の言葉に失望した公孫鞅は[[秦]]にゆき、[[孝公 (秦)|孝公]]に見出されて宰相となり、秦の国政を大改革して瞬く間に強国とした。この功績により、公孫鞅は商の地に封じられて'''[[商鞅]]'''と呼ばれることになる。強国となった秦の度々の侵攻により、魏は徐々に領土を削られてゆくことになる。
[[紀元前341年]]、[[馬陵の戦い]]において魏軍は[[田忌]]・[[孫臏]]の率いる斉軍に敗れ、嫡子の[[大将軍|上将軍]]の[[魏申|太子申]]が捕えられるという惨敗を喫する。また、それを好機と捉えた秦の商鞅がその翌年の[[紀元前340年]]にすかさず西から侵攻し、商鞅と親交があった総大将の[[魏コウ|公子卭]](恵王の異母弟?)を欺き、これを捕虜として大勝したために、魏は都を[[安邑]]から、東方の[[大梁]](現在の[[開封]])に遷さなければならないほどであった。これ以降、魏は'''梁'''とも呼ばれるようになる。このように失意の中にいた恵王は溺愛した太子申の同母弟の[[襄王 (魏)|公子赫]]を世子に定めたという。同時に恵王は「あの時にわしが公叔座の言葉を聴いて、公孫鞅とやらを[[処刑]]すればこんなことにならなんだのに…」と洩らして、商鞅を誅殺しなかったことを大いに悔いたという。
度重なる敗戦により、魏は衰え、[[韓]]と
=== 孟子との対話 ===
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