「燕 (春秋)」の版間の差分

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=== 燕の滅亡 ===
その後は秦が圧倒的に強勢となるが、秦との国境を接していない燕はその圧力を感じることなく、むしろ隣接する斉や[[趙 (戦国)|趙]]の圧力に対抗するために秦と結ぶこともあった。ところが、[[紀元前228年]]に燕と秦の間の緩衝国的な役割を果たしていた趙が秦によって滅ぼされると、燕は直接秦の圧力を感じることになった。この状況を覆そうと[[燕太子丹|太子丹]]は、[[始皇帝|秦王政]]に対して[[荊軻]]という刺客を送ったが失敗した。この時、荊軻に同行した[[秦舞陽]]は上述の秦開の孫である。激怒した秦王政に燕は攻められて、首都は陥落した([[紀元前226年]])。太子丹は殺され、[[燕王喜]]は[[遼東半島|遼東]]に逃れたが、[[紀元前222年]]に秦の将軍の[[王賁]] [[李信]]に攻められて王が捕虜となり、燕は滅んだ。[[督亢]]の地(燕の本土)は秦の広陽郡となり、昭王が置いた5郡と合わせて秦の統治下では6郡となった。朝鮮半島の燕の諸要塞は「上鄣」と「下鄣」の2ヶ所にまとめられたが、遼東郡に属することになり、前代と同様、官吏を派遣して治められた。
[[李信]]に攻められて王が捕虜となり、燕は滅んだ。[[督亢]]の地(燕の本土)は秦の広陽郡となり、昭王が置いた5郡と合わせて秦の統治下では6郡となった。朝鮮半島の燕の諸要塞は「上鄣」と「下鄣」の2ヶ所にまとめられたが、遼東郡に属することになり、前代と同様、官吏を派遣して治められた。
 
=== 滅亡後の情況 ===