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[[渋沢栄一]]とともに京都織物株式会社の創設するなど幅広く産業の発展に尽力した。それら事業で成した財は、その後も大阪経済界と庶民のために使い、大阪府立医学校や大阪府病院の創設にもその財を寄託している。
 
長男の磯野良吉は、現在の住友大阪セメントの前進企業である、大阪窯業セメント株式会社を1926年(大正15年‐昭和元年)に設立、初代社長となる。後、大阪窯業耐火煉瓦株式会社も創設。有馬鉄道株式会社の発起人となり、大正4年には、三田‐有馬間を蒸気機関車で開通させるなど関西経済圏の発展に尽力した人物である。

また孫(磯野良吉の娘)の道子は、甲陽中学で甲子園に、慶應義塾大学野球部で活躍し、野球殿堂博物館の戦没野球人モニュメントに刻まれている[[九里正]]を産んでいる。

奇縁というべきか、同じく孫の磯野三郎(磯野良吉の次男、道子の兄弟)は、1915年(大正4年)現在の夏の甲子園全国高等学校野球選手権大会の第一回大会(全国中等学校野球大会 当時は大阪豊中球場にて開催)の優勝校 京都二中(現在の京都府立鳥羽高等学校)のメンバーの一人である。

磯野小右衛門の玄孫、(磯野三郎の孫)には、アデコ株式会社(スイス上場の世界最大の人事人財企業の日本法人)の元社長の[[奥村真介]]がいる。
 
磯野小右衛門は、[[井上馨]]の娘であった'''聞'''('''ぶん''')を養女にしたが、'''聞'''は後に井上姓に戻った。また、[[司馬遼太郎]]の小説「俄」にも登場している。