「坂田三吉」の版間の差分

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== 南禅寺の決戦 ==
阪田の復帰を記念し、[[読売新聞社]]主催で特別対局が行われることになった。既に名人の関根は引退を表明しており、関根の弟子で、当時行われていた第一の実力制名人戦で最有力優勝候補であった、[[木村義雄]]と[[花田長太郎]]が対局に臨むことになる。
 
木村との対局の舞台は京都の[[南禅寺]]。[[1937年]](昭和12年)2月5日から7日間、持ち時間30時間というルールの下で行われた。現在の公式戦で持ち時間が最も長い棋戦は名人戦の9時間であり、名人戦は創設当初でも15時間の持ち時間で指されていたことからも、30時間という持ち時間は非常に長い。このとき66歳の阪田にとっては厳しい戦いになることが予想された。
 
この対局は後手となった阪田が2手目に△9四歩と指した(「阪田の端歩突き」)。当時の常識では後手でありながらなお1手損とするのと同様であるこの指し手は、関西の棋界を背負っていた阪田の、東京への反骨精神の表れとも見られている。
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読売新聞社の観戦記者である[[西條耕一]]によると<ref>「[[将棋世界]]」2007年10月号、120-121ページ、「女流棋士勉強会 “将棋界の発展の歴史”を西條耕一氏が講義」参照。</ref>、当時は関根金次郎が名人位を返上し、木村義雄らによる第1期の名人決定リーグ戦のさなかであった。名人戦は[[東京日日新聞]](現在の[[毎日新聞社]])が主催していたが、小さな新聞社であった読売は名人の権威を逆手に取り、リーグ戦の上位で名人位獲得が有力視されていた木村義雄、花田長太郎の2人の実力者と阪田を対局させることを企画したという。名人位の失墜を恐れる毎日は反発したが、木村が「(もし対局が受け入れられないなら)将棋大成会を脱退し、個人として参加する」ことを宣言して対局は実現した。このことは、木村にそこまで言わせるほど阪田と対戦できるということに魅力があったことを示している。
 
花田との対局([[1937年]](昭和12年)3月)は「[[]]の決戦」と呼ばれ、このときは後手となった阪田が2手目に△1四歩と南禅寺とは反対の端歩を突いている。結果は169手で花田の勝ちとなった。
 
== 阪田三吉の妻 ==