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ヴァイキングは[[海賊]]・[[交易]]・植民を繰り返す[[略奪]][[経済]]を生業としていたのではなく、[[ノルウェー]]の[[考古学者]]である[[トール・ヘイエルダール|ヘイエルダール]]が述べたように、故地においては[[農家|農民]]であり[[漁師|漁民]]であった。<!-- 以下の部分の出典は学術文献ではなく、リンク先にもそのような文言はないため、コメントアウトしました。1年間異論が出なければ削除します。"特に手工業に秀でており、職人としての技量は同時代においては世界最高のレベルであった"<ref>http://www.history.com/topics/exploration/vikings-history</ref>-->
また、ヴァイキングたちの収益の大部分が交易によるものだったと言われている<ref name=historyonthenet>[http://www.historyonthenet.com/vikings/vikings-as-traders.html Vikings as Traders]{{En icon}}</ref>。この事実から、ヴァイキングたちにとっても航海の主たる目的は交易であり、略奪の方がむしろ例外的なものだったと考えられる。金になる[[ブリテン諸島]]、[[イベリア半島]]、[[イタリア半島]]、[[バルカン半島]]、[[ヨーロッパロシア]]、スカンディナヴィア半島、[[北アフリカ]]、[[西アジア]]との交易路<ref
== 名称 ==
[[古ノルド語]]: [[wikt:ja:vikingr|vikingr]]([[アイスランド語|氷語]]: [[wikt:ja:víkingur|víkingur]]、フィヨルドから来たもの)。[[古ノルド語]]: [[wikt:ja:vik|vik]]([[アイスランド語|氷語]]: [[wikt:ja:vík|vík]])は[[湾]]、[[入り江]]、[[フィヨルド]]を意味する。
また、『サーガ』や『[[エッダ]]』などに「ヴァイキングに行く」という表現がみられるところから「探検」「航海」「略奪」などを意味するのではないかという解釈がある
== 背景 ==
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=== ステレオタイプ ===
[[ファイル:Leif Ericson on the shore of Vinland.gif|thumb|ステレオタイプなヴァイキング]]
一般に、角のついた兜と毛皮のベスト、といった服装が、ヴァイキングの服装の[[ステレオタイプ]]として知られている。<!--『ヴァイキングの暮らしと文化』ここから-->しかしこれは史実ではなく、当時のヴァイキングの遺跡からはこのような兜は出土していない
== ヴァイキングの舟 ==
[[ファイル:oseberg_longship.png|thumb|[[オーセベリ船]]<br>([[ヴァイキング船博物館 (オスロ)|ヴァイキング船博物館]]、オスロ)]]
{{main|ヴァイキング船}}
ヴァイキングは「[[ロングシップ]]」と呼ばれる喫水の浅く、細長い舟を操った。ロングシップは外洋では帆走もできたが、多数のオールによって漕ぐこともでき、水深の浅い河川にでも侵入できた。また陸上では舟を引っ張って移動することもあり、ヴァイキングがどこを襲撃するかを予想するのは難しかった。まさに神出鬼没といえる。このため、[[アングロ・サクソン人]]諸王国や[[ヨーロッパ大陸|大陸]]の[[フランク王国]]も手の打ちようがなく、ヴァイキングの襲撃を阻止することはできず、甚大な被害を受けることになる。{{要出典範囲|戦闘に主に用いられた|date=2015年3月}}<!--『ヴァイキングの暮らしと文化』ここから-->ロングシップのほか、戦闘にも貿易にも使用できたと考えられている[[クナール]]など、ヴァイキングは何種類かの船を併用していた
[[ヴァイキング船]]については、ノルウェーのオスロ郊外[[ビグドイ]]にある[[ヴァイキング船博物館 (オスロ)|ヴァイキング船博物館]]、およびデンマークの[[ロスキレ]]にある[[ヴァイキング船博物館 (ロスキレ)|ヴァイキング船博物館]]が中心となって研究がおこなわれている。また、ヴァイキングには、船を副葬にする慣習([[船葬墓]])があり、ノルウェー・[[ヴェストフォル県]][[トンスベルグ]]近郊のオーセベリ農場の墳丘墓で見つかった[[オーセベリ船]]や、<!--『ヴァイキングの暮らしと文化』ここから-->同じくノルウェーのヴェストフォル県サンデフィヨルドのゴクスタ農場墳丘墓で見つかった[[ゴクスタ船]]など、いくつかの船が完全な形で発掘され、ヴァイキング船の研究に大きな役割を果たした
== 商業 ==
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西暦[[700年]]代末頃からヴァイキング集団は[[ブリテン諸島]]や[[フリースラント]]への略奪を始めたが、この頃には季節の終わりには故郷へと戻っていた。
本格的なヴァイキングの時代が始まるのは、[[793年]]の北部[[イングランド]]の[[リンデスファーン修道院]]襲撃からとされる
中世初期の[[文献資料 (歴史学)|文献資料]]は、ヴァイキングに敵意を持つ西欧人の記した記録や伝承記が多い。中世の西欧人にとってノルマン人(ヴァイキング)と[[ペスト]](黒死病)は二大脅威だったのである
[[793年]]、ノルマン人と思われる一団によって、[[ブリテン島]]東岸の[[リンデスファーン修道院|リンディスファーン修道院]]が襲撃された。このことは「アングロ・サクソン年代記」に記されており、[[西ヨーロッパ]]の記録に記された最初のヴァイキングの襲撃とみなされている。
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ヴァイキングは、9世紀に[[フェロー諸島]]、次いで[[アイスランド]]を発見した。そしてアイスランドから[[グリーンランド]]、アメリカ大陸(ニューファンドランド島と推測される)へ進出した。彼らはまた、ヨーロッパの沿岸や川を通って渡り歩く優れた商人であったことから、グリーンランドを北端にして南はロシアの内陸河川を航行して[[イスタンブール]]に進出していった。
ヴァイキングは海岸線を伝い、現在のフランスや[[オランダ]]にあたる地をしばしば攻撃した。デーン人は、834年にフランク王国を襲撃、843年には[[ロワール川]]の河口に近い[[ナント]]を襲った
ヴァイキングの西欧への侵入は当初は略奪目的が少なくなかったものの、9世紀末以降は、ロロの例にみられるごとく定住化の傾向が顕著になる。これは、ヴァイキングの故郷であるデンマーク一帯に統一権力形勢の動きが起こることと連関があり、故国で志をえない有力者が部下とともに移住するケースとみられる
== 各国のヴァイキング ==
=== デンマークおよびノルウェー ===
[[ファイル:England-878ad.jpg|thumb|250px|デーンロウ:黄色の部分]]
アングロ・サクソンの史料においては、デンマークから来たヴァイキングは'''[[デーン人]]''' (Daner, Dane) と呼ばれ
[[804年]]、フランク王国の[[カール大帝]]はザクセンを併合し、これによりフランクとデンマークは国境を接することとなった。これに危機感を抱いたデンマーク王[[ゴズフレズ (デンマーク王)|ゴズフレズ]]は、スラヴ人の商業都市レリクを808年に滅ぼして商人を自らの商業都市である[[ヘーゼビュー]]へと移住させ、以後ヘーゼビューはデンマークの商業中心となっていった。その後、[[810年]]にはフランク王国の北端となったフリースラントへと侵攻している。次代の[[ヘミング (デンマーク王)|ヘミング]]の代には一時和平が成立したものの、[[834年]]にはフリース人の商業中心であるドレスタットを襲撃し、以後フランク王国北岸への攻撃を強めていく。[[841年]]には、フランク王[[ロタール1世]]はデンマークの二人の首長、ロリクとハラルドにワルヘレン島やフリースラントなどを与え、懐柔を試みる。ロリクはこの時、ノルマン侯国をドレスタットを中心として建設し、数十年ほど国を維持する
840年代には[[ロワール川]]河口や[[ナント]]、[[ブルターニュ]]を襲い、850年代には[[ジブラルタル海峡]]を回って[[地中海]]にまで進出し、イタリア半島やローヌ川流域を襲撃している。[[863年]]にはドレスタットを3たび襲撃し、この襲撃をもってドレスタットは完全に衰退する。
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[[セーヌ川]] (Seine) 河口に大軍の集結地を作り、そこから繰り返し北[[フランス]]各地へと出撃した。[[851年]]にはイングランド本土へ侵攻して東部イングランドを蹂躙し、[[865年]]にはふたたびイングランドに来襲して[[ノーサンブリア]]から[[イースト・アングリア]]一帯を占領し、さらにイングランド南部をうかがった。これに対し、[[ウェセックス]]王国の[[アルフレッド大王]]は[[877年]]にデーン人を撃退し、翌[[878年]]の[[ウェドモーアの和議]]によってイングランドは北東部と南西部に二分され、南西部をウェセックス王国が、北東部をデーン人の領域([[デーンロウ]])とすることが取り決められた。これ以後、150年にわたってイングランドの歴史は[[アングロサクソン]]諸王国とヴァイキングの闘争に支配される。[[911年]]にはセーヌ河の「ノースマン」(北の人=ヴァイキング)は首長[[ロロ]]の下に恒久的に定住し、[[ノルマンディー公国]]を形成することになる。
ヴァイキングはノルマン人とも言われるが、ノルマン人が居住したことからノルマンディーという地名が生まれた
ノルマンディー公国成立後も、デーン人の進出は続いた。[[11世紀]]のデンマーク王族[[クヌート1世 (イングランド王)|カヌート]]は父がヴァイキングを先祖とする[[デーン人]]で母が[[西スラヴ人|西スラヴ]]の[[ポーランド人]]の王族であるがイングランドとデンマークを結ぶ[[北海帝国]]の主となり、'''カヌート大王'''(在位1016年 - 1035年)と呼ばれる。しかしその後、[[1035年]]にカヌートが死去するとすぐにこの帝国にはほころびが生じ、[[1042年]]には[[エドワード懺悔王]]がイングランド王位に就く。しかし彼の死後、[[ノルマンディー公]][[ウィリアム1世 (イングランド王)|ギョーム]]は[[1066年]]にアングロサクソン・イングランドを征服([[ノルマン・コンクエスト]])し、[[ノルマン朝|ノルマン王朝]]を築いた。
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=== スウェーデン ===
[[ファイル:Varangian routes.png|thumb|250px|地図中の青線(バルト海上の紫線を含む)が「[[ヴァリャーグからギリシャへの道]]」を示す]]
スウェーデンのヴァイキングは、しばしば'''スヴェア人'''と呼ばれる。北方ドイツやフィンランド、東スラヴ地域へも進出した。東スラヴの地へ初期の進出は、[[8世紀]]後半から9世紀半ばにかけてあったとされる[[都市国家]]群の[[ルーシ・カガン国]]の建国であった(国家群の民族構成には、[[ノース人]]の他、[[バルト人]]、[[スラヴ人]]、[[フィン人]]、[[テュルク系民族]]も含まれている)。彼らは[[フランク王国]]の「[[サンベルタン年代記]]」などでノース人、あるいは[[スウェーデン人]]であったと伝えられている。このルーシ・カガン国が最期、発展してキエフ・ルーシとなったのか、あるいは単にキエフ・ルーシに吸収されたのかは不明である。また、[[リューリク]]が[[ノヴゴロド公国]]で新しい公朝を立てたといわれているが、この論争はゲルマニスト・スラヴィスト間の対立として知られ、とくに『[[原初年代記|ルーシ年代記]]』にみられる「[[ルーシ]]」の同定、さらに「ルーシ」が国家形成で果たした役割をどう評価するかが論点となっている。ただし、現代では反ノルマン説は根拠に乏しいとして否定されている(反ノルマン説を提起するのは、多数の東欧の歴史家である。この問題は、史実的な問題というよりも[[政治問題|政治的な問題]]である)。また、ノルマン人がルーシ国家の創設に深く関わっていたのは事実である。さらに、[[リガ湾]]や[[フィンランド湾]]に流れ込む河川を遡り、[[9世紀]]には[[バルト海]]と[[黒海]]を結ぶ陸上ルートを支配するようになった。彼らは[[東ローマ帝国]]の都[[コンスタンティノープル]]にまで姿を現している([[839年]]頃)。このルートは直接イスラム世界へとつながるものであり、[[フランク王国]]経由ルートにかわりこのバルト海ルートが一時スカンディナヴィアと東方世界とをつないでいた
== ヴァイキング後裔国家 ==
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<!--ここにあった文献のリストは、{{Cite book}}を使用しているものの事実上「参考になりそうな文献」のリストでしたので、上の「読書案内」の節に移動しています(節の名前も錯誤を防ぐため「関連図書」ではなく「読書案内」としました)。「読書案内」にある文献を加筆時に参考にした場合はこの節へ戻してください。-->
記事執筆時の参考文献を著者名順(50音順)に並べた。
* {{Cite book|和書|author=佐藤弘幸|title=
* {{Cite book|和書|author=
* {{Cite book|和書|
* {{Cite book|和書|author=[[
* {{Cite book|和書|last=ボワイエ|first=レジス|authorlink=:fr:Régis Boyer|others=[[熊野聰]]監修、持田智子訳|title=ヴァイキングの暮らしと文化|publisher=[[白水社]]|date=2001-11|isbn=978-4-560-02834-6|ref={{SfnRef|ボワイエ|2001}}}}
* {{Cite book|和書|author=[[熊野聰]]|others=[[百瀬宏]]、村井誠人|title=北欧史|publisher=[[山川出版社]]|series=新版世界各国史 21|edition=新版|chapter=第二章 ヴァイキング時代|date=1998-08|isbn=978-4-634-41510-2|ref={{SfnRef|熊野|1998}}}}
== 関連項目 ==
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