「西郷隆盛」の版間の差分

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こうして形成された薩摩藩への悪評(世論も大きな影響を持っていた)は薩摩藩の京都・大坂での活動に大きな支障となったので、西郷は6月11日に大坂留守居・木場伝内に上坂中の薩摩商人の取締りを命じ<ref>『西郷隆盛全集』第一巻</ref>、往来手形を持参していない商人らにも帰国するよう命じ、併せて藩内での取締りも強化し、藩命を以て大商人らを上坂させぬように処置した<ref>『西郷隆盛全集』第五巻</ref>。
 
4月、西郷は御小納戸頭取・一代小番に任命された。[[池田屋事件]]からまもない6月27日、朝議で七卿赦免の請願を名目とする長州兵の入京が許可された。これに対し、西郷は薩摩は中立して皇居守護に専念すべしとし、7月8日の徳川慶喜の出兵命令を小松帯刀と相談の上で断った。しかし、18日、長州勢([[長門国|長州]]・[[因幡国|因州]]・[[備前国|備前]]・浪人志士)が伏見・嵯峨・山崎の三方から京都に押し寄せ、皇居諸門で幕軍と衝突すると、西郷と伊地知正治らは乾御門で長州勢を撃退したばかりでなく、諸所の救援に薩摩兵を派遣して、長州勢を撃退した([[禁門の変]])。この時、西郷は銃弾を受けて軽傷を負った。この事変で西郷らが採った中立の方針は、長州や幕府が朝廷を独占するのを防ぎ、朝廷をも中立の立場に導いたのであるが、長州勢からは[[来島又兵衛]]・[[久坂玄瑞]]・真木保臣ら多く犠牲者が出て、長州の薩摩嫌いを助長し、「薩奸会賊」と呼ばれるようになった。
 
=== 第一次長州征伐前後 ===