「最後の晩餐」の版間の差分

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en:Last Supper#Location 05:15, 6 May 2018 を抄訳。
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== 死海文書 ==
[[死海文書]]の研究から、この場面は、クムラン教団(または[[エッセネ派]])の、聖宴に関する規定に由来するという指摘がある。その規定によれば、パンと葡萄酒が祭司のもとに集められ祝福の祈祷を終えた後、祭司が最初に手をつけてから他の信者に配られたとされている<ref>ジェームズ・H.チャールズウァース編著, [[山岡健]]訳, 『イエスと死海文書』、[[三交社]], [[1996年]].(orig. ''Jesus and the Dead Sea Scrolls.”) </ref>。
 
==最後の晩餐の場所==
[[File:Jerusalem Cenacle BW 5.JPG|thumb|right|200px|[[シオンの丘]]にある[[上の部屋]]が最後の晩餐の場であったとされている。]]
最後の晩餐が行われた場所ははっきりしないが、[[西方教会]]では伝統的に[[エルサレム]]の[[シオンの丘]]の「[[ダビデ]]の墓」([[:en:David's Tomb|David's Tomb]])にある建物の「[[上の部屋]]」([[:en:Cenacle|The Cenacle]])であるとして保存している。「[[ルカによる福音書]]」22章9~12節には
:(弟子の)二人が「どこに(過ぎ越しの食事を)準備いたしましょうか」と言うと、イエスは言われた。「...すると(家の主人が)席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備しておきなさい。」二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過ぎ越しの食事を用意した。
とある。この「上の部屋」は「使徒言行録」1章13~14節にも登場して、[[ペンテコステ|聖霊降臨]]が起こった場所ともされる。
:彼ら(使徒たち)は都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。
 
[[東方教会]]の[[コプト正教会]]では聖マトフェイ修道院([[:en:Monastery of Saint Mark, Jerusalem|Monastery of Saint Mark, Jerusalem]])で最後の晩餐が行われたとしている。
 
== 芸術作品 ==