メインメニューを開く

差分

[[1519年]]、コルテスはキューバ総督[[ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル|ディエゴ・ベラスケス]]の命令に違反して500人の兵、馬16頭、帆船11隻を率いて[[メキシコ湾]]岸沿いに進み、3月12日タバスコ川に到着、翌日の原住民との戦いに勝利する。ユカタン半島で8年前にこの地に漂着していたコンキスタドーレス、[[ヘロニモ・デ・アギラール]]と、パイナラの族長の娘[[マリンチェ]]と出会い、彼ら二人を通訳兼案内人として先へ進んだ。7月26日に兵の逃亡を防ぐため船を沈める。同年8月、メキシコ湾岸に[[ベラクルス]]市を建設する<ref>「世界探検全史 下巻 道の発見者たち」p61 フェリペ・フェルナンデス-アルメスト著 関口篤訳 青土社 2009年10月15日第1刷発行</ref>と、内陸へと進んでいった。メキシコ高原に到達すると、[[アステカ]]の宿敵である[[トラスカラ王国|トラスカラ]]人と戦い和睦して同盟を結び、さらにテスココなど各地の勢力と同盟を結んだ上でアステカへと向かった<ref>「図説 ラルース世界史人物百科Ⅱ ルネサンス - 啓蒙時代」p76 - 77 2004年10月25日第1刷 フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編 樺山紘一日本語版監修 原書房</ref>。当時、過酷な税制によってアステカ支配下の諸民族は不満を強めており、これがコルテスらの軍と同盟を結ばせる動機となった。結果、スペインと諸民族の混成軍は膨大な数に上った。<ref>「物語メキシコの歴史」p33 [[中央公論新社]] [[大垣貴志郎]] 2008年2月25日発行 </ref>10月16日チョルーラの虐殺が起きる。この虐殺においてスペイン人の正確な報告はない。モクテスマ2世がチョルーラの首長たちにコルテスをだまし討ちするよう命じたため、これを察知したコルテスがチョルーラの要人の殺害を命じた、あるいはトラスカラ人が宿敵のチョルーラ人に復讐するために起こしたと思われる。チョルーラの虐殺にアステカは震え上がった。
 
インディオたちに白い神[[ケツァルコアトル]]の化身と崇められるようになっていたコルテスは、アステカ王[[モクテスマ2世]]に「'''[[国]]をお返しします'''」と言われて丁重に迎えられ、[[アステカ]]の首都[[テノチティトラン]]を6日間案内されて見学し、アステカが思いの外強力であることに気づいた。このとき、血塗られた神殿も案内された。まだ動いている心臓が銀の皿にのせられていたという。
 
弱腰を[[貴族]]たちに責められたモクテスマ2世が、前言を翻して[[スペイン人]]に立ち去るよう要求したため、コルテスは、わずかな兵をテノチティトランに残し体制を整えるために引き返した。
162

回編集